海の口城

標高1250m、比高203m。

平賀源心が城主。平賀氏は佐久市平賀の平賀城城主であり、その出城であるという。また一説に海尻城の出城ともされる。

天文五年(1536)武田信虎は兵8000を率いて34日間この城を攻めた。剛勇で鳴らした平賀源心は兵3000にて城を固く守っている上、大雪が降りやまないことから、止むを得ずいったん甲斐に帰陣することにした。この時攻城に加わっていた武田晴信(信玄)は隊列の殿軍にいて、父の許可を得て300の兵を率いて引き返し、すでに祝宴に酔っていた城を奇襲した。また源心は武田氏の帰陣を知ると、城の守りを解いて兵をくつろがせていた。そこへ武田氏の奇襲を受けてさすがの源心もあえなく戦死して、海の口城は落ちたのである。武田信玄はこの時若干16才で初陣の手柄をたてたという。この合戦は『甲陽軍艦』に記されているが、架空のものであろうというのが定説のようである。しかし柴辻俊六氏は「甲斐国内の状況をみると、花倉の乱が信虎の思惑どおりに終息し、その冬に佐久郡へ出兵した可能性は十分に考えられる」(『戦国合戦大事典』)と述べられている。

いずれにせよ、城址より種子島の筒や剣刀を掘り出した人もいるとの事であり、この城で合戦があったのは事実であろう。

案内板が国道141号沿いに建っていて、そこから千曲川を渡って左に曲がり、ほどなく城山の麓へ到着。砂利道になってしまったが行けるところまで車で登れ、しばらくすると車3台ほど停められる平地があってそこからはケモノ道。20分ほどの登山で尾根に出たら、そこを右に進むと城址。

 

(【左写真】屏風岩より本郭を望む。【右写真】本郭全景で、屏風岩が見える。奥には見晴台が作られている。)

(写真は二の郭と思われる削平地より本郭方向。まともな平地は本郭の周りにいくつか確認できるだけで『甲陽軍艦』にあるような2000人の兵が籠城できる空間はない。)

  

 (【左写真】本郭下から屏風岩を望む。険峻な地形であり、模擬見晴台がある。【右写真】全景でこの山の山頂に城址。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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