葛尾城

標高816.5m 比高386m。

天中九年(1392年)に村上義次の築城と伝わる。村上氏が坂城郷に居館を構えたと推定される南北朝時代の末頃から天文22年4月村上義清が没落するまで、村上氏歴代の本城であった。

険しい地形を利用して、最高所に本郭をおき、つづいてニの郭、三の郭を設け、各郭を深い堀切で区切っている。三の郭の下方には数多くの小段郭があって要害堅固にしている。慶長5(1600)年の関ヶ原合戦のころまで使われたので、残っている遺構は義清時代そのままのものでない。尾根の最も高い所を平にして、人が籠もれるようにしてあり、その周辺に次々に平らな郭が造成してある。一部の郭の周囲には防御のため土塁や、尾根を切るように堀切が設けられている。南側には姫城、西側の尾根にも多くの山城遺構がある。これらは葛尾城とつながりを持って造られたものだという。

砥石城の陥落以来、斜陽の村上義清であったが、戸石崩れ目前の狐落城が落城したのを見て観念し、戦わずして長尾氏のもとに逃げていった。その状況を一級の史料である『高白斎記』は「自落」と評している。

城址へは坂城神社から登山道あり。息のつかない非常に厳しい登山が50分程度。楽に訪問するには林道を利用する。和平地区から林道が山頂近くまで開通しており和平キャンプ場付近、和平公園の少し手前に「←葛尾城」という小さな表示板が立っており、終点まで進むと駐車場があり、そこは主郭の背後になる。

 

  

(主郭址。いくつかの碑と休憩所がある。)

 

(【左写真】主郭すぐ下の二の郭。【右写真】二の郭から主郭を見上げる。その堅固ぶりが分かる。)

 

(【左写真】本郭の搦手側に配された堀の址。【右写真】は搦手口にある堀。いくつか同様の堀が確認でき、いずれも深いものである。)

 

(葛尾城からさらに五里ヶ峯に登るとこの様な石垣が見られる。上下4枚の写真は同一の遺構を撮ったもの。)

 

 (この辺りに根小屋があったのか、搦手を守る番所があったのか不明。この遺構の真意も分からない。)

(本郭から長野市方面を望んだもの。朝7時くらいの写真

(城址遠望)

 

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