屋代城

一重山城とも。標高458m、比高98m。

築城の年次については記録を欠くが、室町時代初期に遡るもので、天正十一(1583)年四月最後の城主・屋代秀正がこの地を去るまで 200余年の長年に及んで使用された山城。大塔合戦にも参加した屋代氏代々の本拠。もともと屋代氏は葛尾城村上氏の支族で、村上・武田・徳川に従って、後に甲州に転封されて廃城になった。

城のあった一重山の尾根筋には、たくさんの曲輪が南から北に連続し、曲輪と曲輪の間は主として掘切りや、竪堀が確認できる。また雛壇状の腰曲輪と呼ばれる削平地が設けられている。本郭は最高所にあって、東西23m南北34m、二之郭は本郭の北に続き、東西29m南北25m、共に平地をなし、三之郭は二之郭の一段下にあって、その間に深い空壕を設け、東西 18m、南北23m、南端に高い土塁の一部を残している。三之郭から北に続いて幾つもの段郭があって、段郭と段郭の間に空壕を設けている。

一般的に村上氏系の城郭は比高の高いものが多く、屋代城は更埴地方では最低の高低差であり、他の山城とは一線を画く縄張りを持っている。しかし城域の半分近くは破壊され原型を留めておらず貴重な遺構を失ったことは非常に残念である(『信州の山城』)。それでも近世の平山城を思わせるような規模で、興味深い城址。

城址へは県道392号、「屋代横町」バス停のそば、しなの鉄道の踏み切り付近に登山道がある。登山は15分ほどでキツくはない。

 

 (【左写真】主郭。南北34m×東西25mと広い。もともと土塁があったが後年に崩されたという。)

(【右写真】主郭には一部石積みが残る。本郭は桑園に使用されたらしく、遺構ではないかも知れない。)

 

 (【左写真】主郭と二の郭の間の堀切。【右写真】この堀切は土塁をもって厳重にしている。)

 

 (【左写真】二の郭から主郭を見上げる。【右写真】その後も削平地が連続する。)

 

 (【左写真】堀切と土橋も散見される。【右写真】三の郭の虎口。縄張りの意図が明確に分かる貴重な遺構。)

(現地説明板)

  

 (【左写真】山麓にある御嶽神社。他にもいくつか社がある。【右写真】登山道入口)

 

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