塩田城

塩田城は鎌倉時代中期(1277年)鎌倉幕府の重職であった北条義政がこの地に移り館を構えたことから始まる。義政の子国時、その子俊時と三代にわたり約60年間、塩田北条と称し信濃の一大勢力としてこの地方を統治し、また幕府内でも活躍した。

元弘三年(1333年)鎌倉幕府の運命が危うくなったとき、この塩田北条氏は「いざ鎌倉」と一族を挙げて支援にかけつけたが奮戦むなしく幕府と共に滅亡した事情は『太平記』に詳しい。その頃、この地方は信濃の雄村上氏の領有するところとなり、村上氏は重臣福沢氏をここにおいて統治させた。

再び塩田城は政治の中心として重要な役割を果たしていたが、天文二十二年(1553)甲斐の武田信玄に攻められ落城した。信玄は村上氏の本拠・葛尾城を攻め、村上義清は越後の長尾景虎の元に逃走したが、越後勢の救援を受け、村上義清は塩田城に籠もっている。それを知った武田軍は城を包囲し、塩田城が落城すると村上義清は行方知らずとなり(『妙法寺記』)、東信濃は完全に武田氏の支配するところとなった。

信玄はこの塩田城を戦略上の重要性に注目し、特に飯富氏等の重臣をこの城におき、自らも時々ここに滞在して東信濃の拠点とした。信玄の子勝頼もそれにならったので、この城は上田城を築くまで約30年間この地方の軍政両面の拠点であった。その後真田昌幸が上田城を建てて城下町を作成すると塩田城一帯は荒廃が進んだという。

  

(城址は広大だが荒れ果てている。右は城内の三島神社付近に見られる井戸址。)

   

(大手道にある井戸址。なぜか井戸の石垣だけはよく残る。右は城址の碑でここから登山する。)

  

 (城址全景。手前のふたつの山に砦が築かれ、その間に城址がある。)

 

 

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