荒神山城

武田信玄が諏訪氏に続いて高遠城の高遠頼継を追い、伊那口への侵攻の手掛かりを得て、高遠城落城の翌日には怒濤のように進軍を開始した。駒井政武は伊那へ侵入して藤沢谷を放火し、福与城に迫った。しかし諏訪一族や高遠の遺臣らの頑強な抵抗を受けて撤退する。

荒神山城は、その2年後の1544年に、再度信玄が伊那を攻めた時に高遠と福与を結ぶ要衝として攻撃して落とし、ここに布陣している。その時、荒神山城は伊那衆とともに、小笠原長時が派遣した草間肥前守が守っていたが、信玄の弟である武田信繁が3時間で120の兵を討ち取って奪い取ったという。(『小平物語』)

しかしこの時も高遠衆の援軍があったため福与城を落とせず、松島周辺を放火しただけで撤退したという。

周辺の国道にも複数の案内板(荒神山公園)があってすんなり訪問できた。しかしそれだけに著しく公園化していて遺構は確認できない。山腹には荒神社があるものの戦国時代との関係は不明。

 

(城址は公園になっていて色々な施設が建ち並び、遺構は確認できない。)

 (大きな池があるが、自然のものなら当時も水には事欠かなかったであろう。)

 

 

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