八王子城

標高470m、比高240m。

天正十二-十五年(1584-1587)頃、北条氏照(氏康の次男)が、滝山城を廃城にして築城した典型的な山城。

以前に氏照の家臣が織田信長への使者として安土城を訪問した時、その壮大な石垣の報告を受けて、関東の城郭には珍しい石垣を多用させ、戦国最後の大型山城と評価されている。

 

〜八王子城の戦い〜

小田原の合戦では豊臣軍下の上杉景勝、真田昌幸、前田利家らに攻められ落城。上杉景勝、前田利家らは天正十八年(1590)3月に関東へ侵攻を開始しているが、すでに八王子城では天正十六年(1588)正月から臨戦態勢に入っている。
椚国男氏によれば兵士の他に大工、鍛冶、修行者、僧や人質の妻子が多く入城し、倉庫や小屋が山上に多数作られたという。
天正十八年(1590)旧暦623日夜更けに攻撃は開始された。現在山麓の観光用看板や公衆トイレの設置されている場所がかつての山下曲輪といわれ、豊臣氏へ降伏した旧臣・大道寺政繁らが突撃し、この重要な関門を陥落させ、攻城軍は山頂の曲輪群や御主殿に怒涛の如く雪崩込んだ。
この際に御主殿下の滝へ妻女達が自刃し身を投じたといわれている。

落城した時間は榊原康政の加藤清正宛書状に「早朝」と記されており(水戸松平文書)、約4時間の死闘だったと思われる。
一説によると北条方の戦死者は約
1,200人といわれる。城将として討ち死した忠臣・中山家範、狩野一庵の忠節に感じ入った徳川家康はその子息を家臣に登用し、重用したという。

 

八王子城の戦いの詳細・八王子城の怨念はこちら
八王子城の戦い

 

小田原城で八王子城の悲報を聞いた城主・北条氏照は、床を叩いて号泣したという。その真偽は不明だが、自身の築いた八王子城と城主無しで討ち死にしていったの家臣らを想うと、彼の落胆は想像に難くない。氏照はその後、兄・氏政ともに切腹し、小田原伝心庵に埋葬された。

現在山麓の御主殿址などはよく整備されている。ただしこの城の本分を堪能するにはやはり山頂まで訪問する必要があり、約30分の登山が待ち受けている。

 

 

(【左写真】城址入口で、ここは「近藤曲輪」で防御の最重要地点であった。【右写真】登山道入口

 

(【左写真】山中の「馬蹄段」。ここには弾薬庫もあったという。)

(【右写真】「金子曲輪」。山頂への6合目付近の削平地。

 

(【左写真】「柵門台」。いくつかの登城路が合流する要所で番門があったようだ。)

【右写真】「中の曲輪」。山頂本丸の腰曲輪といったところか。

 

(【左写真】八王子神社で、ここを本丸とするのが自然だろう。)

【右写真】「松木曲輪」。見晴が良く、石碑が立ち並ぶ本丸の腰曲輪。

(頂上部。本丸というよりは物見台であろう。ただ、焼けた櫛や撃ち残しの銅玉が出土しており、最後まで戦いが行われた場所であると思われる) 

 

(【左写真】山麓の「あしだ曲輪」【右写真】「あしだ曲輪」土塁

 

(【左写真】「あしだ曲輪」と「山下曲輪」間の堀切。天然の沢を利用している。)

【右写真】大手道。通称「上の道」で御主殿に続く。

 

(【左写真】御主殿枡形の石垣。下半分は発掘されたままに組まれている。)

(【右写真】御主殿の櫓門礎石。4個の礎石が遺構として残る。

 

(【左写真】御主殿排水路)

(【右写真】氏照屋敷址への曳き橋で、この下に川が流れていて御主殿の滝がある

 

(【左写真】氏照屋敷址。「御主殿」とも)

(【右写真】「御主殿」の奥には山頂へ登る「殿の道」がある。

 

(「殿の道」の無名曲輪の石垣群で非常に雄大見事。

 

(【左写真】無名曲輪の「指揮台石」 【右写真】御主殿」を囲む石垣

 

(【左写真】御主殿の滝」【右写真】御主殿の滝」の水汲み場で、遺構だという。

御主殿の滝」は女子供が自殺した場所として有名になっているが、現地踏査すると、そのような地形ではなく、滝の高さもそれほどではない。

昔は現在と異なって峻険な地形だったという説もあるが、現実的に水汲み場と滝を保全する目的の石垣遺構が残存しており、戦国時代の滝そのものから変化はないと考えられる。

ここに「人々が身を投げて、川は三日三晩に亘って血に染まった」というのは落城譚として生まれやすい伝説なのかも知れない。

ただ、以前に訪問した際には、この滝にある供養塔の脇に真っ白なヘビがいて、すぐに滝の方に消えて行った。伝承とは別に戦国時代の人々はこの滝を生活の一部として利用し、また何らかのいわくがあるのは間違いないと感じられてならない。

 

(現地城址鳥瞰図)

 

(根小屋地区から城址を遠望)

 

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