小田原城

(江戸時代)

 標高34.7m、比高25m。

天正十八年(1590)に落城した後北条氏小田原城は、江戸時代を迎えると徳川家康の支配するところとなり、その家臣・大久保氏を城主として迎え、城の規模は三の丸以内に著しく縮小された。稲葉氏が城主となってから大規模な改修工事が始められ、近世城郭として生まれ変わる。その後、大久保氏が再び城主となり、箱根を控えた関東地方防御の要衝として、また幕藩体制を支える譜代大名の居城として、幕末まで重要な役割を担ってきた。

明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、残っていた石垣も大正十二年(1923)の関東大震災によりほとんどが崩落した。

現在の小田原城跡は、本丸跡を中心に「城址公園」として整備され、昭和35年(1960)に天守閣が復興、昭和46年(1971)には常盤木門が復元された(『小田原市資料』)。

 

(【左写真】銅門と水堀 【右写真】お茶壺曲輪。茶の湯の道具などが運ばれた場所という。)

 

(【左写真】雷曲輪は図書館などが建つ 【右写真】雷曲輪の江戸時代のままの石垣)

 

(【左写真】本丸東堀跡。後方は城米曲輪。 【右写真】常盤本門。本丸の番門で最も厳重たったという。)

 

(【左写真】本丸鉄門跡 【右写真】本丸跡で動物園などがある。)

 

(【左写真】天守台下の石垣 【右写真】天守脇の古井戸)

(復元天守閣)

(石垣山から小田原城の展望)

 

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