雁田小城

標高460m、比高105m。

この小城は、雁田大城と一体で苅田城とも呼ばれる。雁田大城の主郭部に対し、物見の城といわれるが、築城年代・城主・位置等解明されていない部分が多い。山城の構えは山麓までせり出しており、岩松院付近は山城に包まれた館址と思われる。室町時代から戦国初期の城主を推察すると、伝承では萩野氏となっているが、史実としては高梨氏との結びつきが一番深い。延徳元年(1489)以降は高梨氏の支配が確立し、小布施や山田方面桜沢以北一帯を治めた。苅田城、二十端城、滝ノ入城は、それぞれ成立過程が違っても、有機的に関連する高梨氏の一大城塞地帯であった(『現地説明板』)。

福島正則菩提寺・岩松院の裏山に位置する。岩松院はもともと土豪の居館とされていたらしく、その詰の城として築城されたものであろう。しかし、現在確認できる遺構としての石積み(石垣といってもよいだろう)は、明らかに信州の一国衆が築けるようなものではなく、戦国末期の高度な技術によるものである。おそらく本能寺の変後、上杉氏と後北条氏が信濃の覇権を争った際に、上杉氏が改修したものであろう。この高度な石積みは近く鞍骨城霞城にも見られるが、雁田小城は最も進化した形状に感じる。

城址へは岩松院に簡単な案内図がある。福島正則廟に向って左方向に進んで、尾根の先端にある登山道を10分も登ると驚異的な石垣が現れる。

 

 (【左写真】大手道で、壮大な石垣が遠くからでも見える。【右写真】石垣は複雑で高度)

 

 (階段状に石垣が築かれている。信州の中世山城では見たことが無い。)

 

 (【左写真】主郭。説明板裏に石塁が見える。城は単郭で規模も小さい)

(【右写真】搦め手から城址を見下ろす。規模からして物見・烽火台と思われる。)

 

 (【左写真】搦め手の堀切も石垣が守る)

(【右写真】大手道も石段で作られている。まるで近世城郭を見るようである。)

 

 (【左写真】周囲遠望 【右写真】小城から雁田大城を見上げる)

(管理人が踏査した中で、信州の山城としては最も高度な石積み技術が用いられている。しかし城としての規模は小さく、居住地とも考えられないこの場所に、なぜそのような設備を施したのかは答えが見出せない。)

 

 

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