雁田大城

標高520m、比高250m。
雁田小城と一体で、苅田城とも呼ばれる。東西30間半(55m)、南北15(27m)、周囲には空掘や用水を引いた樋跡が見られる。築城年代、位置、名称等解明されていない部分も多く、伝説に満ちた謎の城といえよう。古くはアイヌ人の城「チヤシ」あるいは大和朝廷の東征時(34世紀)に作られた柵という。また、東條庄狩田郷の領守職、苅田式部太夫繁雅(元暦元年、1184年の文献あり)の居城と伝えられる。室町時代の貞治六年(1367)萩野備後守常倫が築いた二十端城は、この苅田城を含んだものとも言われる。史実からすると、豪族・高梨氏との関りが深く、延徳元年(1489)以降はその支配が確定した。永禄4(1561)武田信玄が高井地方を支配下とするまでの間、苅田城、二十端城、滝ノ入城等は、高梨氏支配地の南部における防衛線であったと推察される(『現地説明板』)。

遺構からして、主郭を中心にいくつかの郭と、堀切で形成され、崩れてはいるものの主郭は石積みで囲まれていたようである。

城址へは、雁田小城から登山道をさらに登る。一気に急斜面になりロッククライミングしつつ20分ほどで到着。山麓からはトータル30分程度。

 

 (【左写真】本郭には説明板とあずま屋がある。結構広い。 【右写真】本郭の搦め手側には土塁があり)

 

 (【左写真】本郭は石積みが全周していたようだ 【右写真】本郭虎口で手前に堀切あり)

  

 (【左写真】搦め手の堀切は3条ほど 【右写真】写真は副郭で、城は3郭程度から成る)

(改修技術は雁田小城よりも低いように感じられ、中世山城の典型的な縄張り)

 

 

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