新府城その3

 

新府城縄張図

 

(本丸の土塁から見た諏訪方面。すぐ下に帯曲輪を配しているのが分かる。)

 

(【左写真】本丸は非常に広大で、土塁が全周していたようだ。【右写真】武田勝頼公の墓所。その位置は、意図してか諏訪側である。)

(本丸から発掘された礎石。明らかな人工蹟が見られ、本丸に何らかの建設物があったことを証明している。勝頼の居館は何とか完成しており、彼は本丸に入城したことを窺わせる)

  

(【左写真】諏訪側の「搦手」とされる枡形。一説に、ここには櫓があったとも云われ、諏訪側の重要な防御拠点であったと思われる。礎石と炭化した木辺が出土しており、門跡とされる。新府城が焼けたということを示す出土品はここを除いて確認されていない。太田牛一『信長公記』に、武田勝頼は「天正十年三月三日卯刻、新府之館に火を懸け」と記載されており、その傍証となる。)

(【右写真】搦手虎口のすぐ下には「西堀」と称される空堀がある。かなり規模は大きく、その防御姿勢がよく分かる。現在でも水を讃えているが、戦国時代にはさらに壮大な水堀であったと思われる。)

 

(【左写真】搦手から入城すると、枡形を越え無名曲輪があるが、そこから城内へはさらに大空堀がある。搦手の防御を重視していたことが分かる。【右写真】それを越えるには細い土橋を経る必要がある。いかにも門跡のような地形である。)

 

(【左写真】西出構。鉄砲の陣場とも、堀に水を溜めるためのダム的施設とも云われる。この遺構は新府城でのみ確認されているものである。【右写真】西出構の全景。)

 

(【左写真】西出構の南側、「中堀」はすでに消滅している。【右写真】「東堀」も残存していない。「東堀」のあった場所から見た「東出構」全景。「西出構」と並行に設置されている。)

(通称「首洗池(椀貸池)」。防御的には、城の外堀であったろう。規模、地形から鑑みて、完全な水堀だったと思う。)

 

(【左写真】新府城の出土品。国産の磁器だという。【右写真】同。鉄製品で、釘と思われる遺物は、この城に建築物があった証し。)

(新人物往来社刊『新府城と武田勝頼』より転写。新府城の全景で、その一方は断崖絶壁、難航不落な地形であることがよく分かる。)

 

(国土地理院発行の2万5千分1地形図


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