武田勝頼
1562)に17歳で元服し、諏訪四郎勝頼と名乗っている。 武田氏の通字である「信」が与えられず諏訪氏の通字「頼」が命名されたのは、勝頼が武田家でなく諏訪家の正統となり、さらには武田家と諏訪地方の統合の象徴であった。 川中島の合戦で叔父の信繁が戦死すると翌年正式に諏訪家を継承し伊那郡の郡代となって、高遠城を本拠として政務にあたっている。
(高天神城) 勝頼は岩殿山城にて織田・徳川軍らの見守る中、その岸壁で花々しく自刃して果てるつもりであったのだろうか。新府城を退去した時点で勝敗は決していた。明智光秀が山崎の合戦に破れ勝竜寺城から本拠・坂本城に逃れようとしたのも、柴田勝家が賤ヶ岳の合戦で惜敗して北ノ庄城に逃れたのも、もはや再起を期待できる戦況ではなかった。 いずれの英傑も雌雄を決する決戦で敗れた後は、武士として死に場所を求めてその場を退いている。
(岩殿山城)
だが、勝頼のその思惑とは裏腹に、ついには小山田信茂にも裏切られて、最後は織田軍の滝川一益勢に追撃されて田野にて自刃して果てた。 最後まで見捨てなかったわずかな忠臣が防戦するなか、 「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れゆくへの西の山の端」 と辞世を詠んだという。 夫人・子とともに、37年を一期とする波乱の生涯を閉じた。
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永禄五年(
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