武田勝頼

武田勝頼は天文十五年(1546)に生まれている。生母は諏訪姫、父信玄は名族・諏訪頼重を滅亡させて、その娘である諏訪姫に惚れ込んで側室にしていた。その間の四郎勝頼の誕生は、すなわち諏訪家の存続であり、諏訪の人々はそれを喜んで、人質を甲府に送って武田家に忠誠を誓った。

永禄五年(1562)17歳で元服し、諏訪四郎勝頼と名乗っている。
武田氏の通字である「信」が与えられず諏訪氏の通字「頼」が命名されたのは、勝頼が武田家でなく諏訪家の正統となり、さらには武田家と諏訪地方の統合の象徴であった。
川中島の合戦で叔父の信繁が戦死すると翌年正式に諏訪家を継承し伊那郡の郡代となって、高遠城を本拠として政務にあたっている。

初陣は永禄六年(1563)、18歳での上野攻略という。
軍記物であるが、『武田三代軍記』には、長野業盛の箕輪城を攻める前日に、敵の斥候らしい武者
5騎が自軍に近寄って来たので秋山紀伊守とたった2騎で斬り込んで敵1騎を撃ち落した。そこに敵勢50人くらいが突撃してきたので、勝頼を見守っていた原美濃守入道がその兵をもって追い散らした。初陣で果敢に突撃し、危うく命を落とそうとした勝頼の武者振りを武田軍の誰もが「倫を離れし挙動」と賞して褒め称えたと記されている。
さらに箕輪城下では長野氏の豪傑・藤井友忠を見付けると、間髪いれず決闘を申し込んだ。しかしその咆哮に友忠は恐れをなして城に逃げ込もうとした。そこで勝頼は飛び掛って馬から落とし、有無をも言わせずにその首を掻き切ったという。
勝頼のこの華々しい初陣を飯富虎昌は、しかし、「匹夫の勇」であると評したと伝わる。

永禄十一年(1568)頃には武田義信事件が発生する。
この事件は『甲陽
軍鑑』が主たる史料で、詳細は不明だが、義信が父信玄に不信感を抱いたのは勝頼が高遠一城の主になった事が不快であったのが一因ともいわれる。
また別に、勝頼は政略で永禄八年(
1565)に織田信長の姪を妻に迎えている。この妻は美濃苗木城主・遠山勘太郎の娘で幼少から信長に養子に入っていた。信長が信玄への機嫌取りの縁談という。しかし義信はこの縁談にも反対しており(織田信長は妻の生家である今川氏の義元の仇敵である)その結果、幽閉されて死亡した。
この事件は勝頼の全く身に覚えのない事であったが、盲目の他の兄に代わって武田家の相続人としての地位を得た。しかし勝頼はこの頃の家臣団の中で義信派の対極の立場に置かれて、禍根を残し、数年後の武田氏滅亡の遠因になった。

信長の姪との間に元亀元年(1570)にはその間に男子が誕生した。後の武田信勝であるが、信玄はそれを祝い、武田氏と信長の血をひく信勝を後継ぎと定めて、勝頼は16歳になるまでの後見を命じられる。
勝頼が正式な後嗣とならなかったのは、諏訪氏の名跡を継いでおり、また織田氏との関係も考慮してのものであった。しかし正式な後継者でなければ家臣団の無二の忠誠を期待できなかった。勝頼の家督の継承前からもはやその政権は砂上の楼閣の上に成り立っていた。

元亀四年(1573)、信玄が歿すると勝頼は事実上の世継ぎとなっていたが、信玄の死の真偽を打診するため徳川家康は武田方の拠点であった長篠城を落として挑発してきた。
勝頼は巻き返しに躍起となって各地に出陣する。一説にこの出陣を重臣たちが諌めて止めたが、勝頼はそれを振り切ったという。だが勝頼は美濃の明智城や遠江の高天神城を攻め落として、その全盛期を誇った。
軍内では信玄の時代よりも強くなったと囁かれ、信長が「信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた恐るべき敵」と評価するほどであった。

戦国史研究の大家・小和田哲男氏は、この父信玄をもってしても落とせなかった高天神城を陥落させられたのが、逆に自信を誇りすぎ、その滅亡を呼んだ一因であろうといわれている。

(高天神城)

信玄の遺言通りに天正三年(1575)にその葬儀が行われると、正式に公表された信玄の死を聞き、武田氏を見限って他家に走る者が続出した。同じく、信玄の死を知るや否や、奥平貞昌もまた徳川氏に寝返り、家康によって長篠城の城主を命じられた。
それを勝頼は激怒し、直ちに
15000の兵をもって長篠城の包囲を開始する。医王寺に本陣する勝頼であったが、信長は長篠城手前の険峻な地に布陣して武田軍を銃隊で迎えたが、勝頼はこれを臆していると判断した。
織田・徳川連合軍が
設楽ヶ原(あるみが原)に布陣すると重臣の諌めも聞かず、軍を退くのを恥としてそこに前進した。
その前日の勝頼の家臣に宛てた手紙で「敵は手段失って逼迫している。一気に敵陣に突撃して信長・家康とも撃破させる事はたやすい」と述べて自信のほどをうかがわせている。今その頃の勝頼の心境はいくつかの彼自身の書状で探るしかない。

『当代記』や『甲陽軍鑑』は、馬場信房や内藤昌豊らの重臣が突撃反対する中で跡部勝資と長坂長閑斎が決戦を主張したとしている。
ただし長閑斎は当時この地にはいなかったので、決戦は勝頼の独断で決まったともいわれる。
また『武家事紀』によれば、信長は武田軍を設楽ヶ原に誘き出す為に重臣の佐久間信盛に偽りの内応を約束させたといい、これを決戦決意の一因とする説もある。

設楽ヶ原に布陣した武田軍であったが決戦当日の朝、徳川氏の酒井忠次の別働隊が武田軍の砦を奇襲してこれを追い長篠城に入り武田軍の背後をとった。
もはや武田軍は挟み撃ちをされる形になり、後退も持久戦も不可能な、前進あるのみの状況に陥ったという説がある。(藤本正行『信長の戦争』)
しかし、合戦では武田一族の多くが初めから離反し、ほとんど戦いに参加することなく無傷で帰国していることを見ると、それほど切迫した状況ではなかったのかも知れない。であるなら、勝頼は自ら進んで設楽ヶ原への進軍を決定し、馬場信房や山県昌景はここを死に場所と決めていたのであろう。

設楽ヶ原での突撃の結果、敵1000挺の鉄砲に叩かれて、錚々たる名将らを死なせ、壊滅的な敗北を喫したとされる。一方で一族は戦わずに逃亡し、他にも敵を目前に逃げ去った家臣も多かったのであろう。

高柳光壽氏の通説や藤本正行氏の新説の間で論争になる、種子島鉄砲の三段打ちがあったとかその数量がどれほどだったのか、という今流行の論議よりも、すでに武田軍のなかでは内乱が起きて、離反が多発し、合戦にならなかったのが真実かも知れない。
それを諌めて制しられず、また戦後に罰することができなかったところに勝頼の政権の在り方がみえるような気がする。

信玄の重臣であった馬場信房山県昌景らはどのような心境で散っていったのであろうか?

ともかく長篠から武田軍は命からがら甲府に退却した。長篠で討ち死にした兵の数は世間でいわれるほど多くない。一説に、二万の戦死者が両軍で出たというが、もちろんそんなことはないわけで、数百、多くて数千単位らしい。しかし忠節を誓い、有能な重臣らを失ったのは痛手であった。

(馬場信房の墓・自元寺)

 

しかし、長篠・設楽ヶ原の敗戦後も武田軍は一概に滅亡の急坂を転げ落ちていったわけではない。武田軍はその数を勢威とし、天正七年(1579)には沼田城を陥落させるなどの目覚しい活躍をしている。1580年くらいまでは要所を抑えて敵の侵攻を防いでいる。

 

ところで、武田勝頼は後北条氏とは良好な関係であったが、天正六年(1578)に上杉謙信が歿すると、その後継ぎ争いで後北条氏と対立してしまう。
後北条氏は徳川氏と手を結んでしまい、それまで実力の伯仲していた武田氏と徳川氏の勢力図は急転する。しかも勝頼と手を組んだ上杉氏は内紛の影響で国力が低下し、織田軍に北陸の領土を侵食され、武田軍に援軍を送れるような状況ではなかった。

この機をみて家康は高天神城を攻略する。城兵は再三にわたって勝頼に援軍を要請したが、その余力はなかった。城将は降伏を願い出たが、信長はそれを一蹴して武田氏が見殺しにしたという体裁を作りあげて殲滅した。
勝頼は武田氏の軍力に従っていた豪族らの信頼を無くし、「天下の面目を失った」(『信長公記』)。

 

はたして戦国時代の領土制覇などはその様なか弱い基盤に建たされており、それぞれの家が武田氏に従っていたのも、自身の保身や利益のみで何ら忠誠心などなかったのである。
「儒教」や「朱子学」の考えはこの頃なかったのは著名な歴史学者が指摘するところである。特に武田氏の支配していた甲斐や信濃は、現在でも全く変わらないが、山々にさえぎられて細々とした地域に分けられる。それぞれにその地を収めていた土豪がいたわけで、それらすべてを完全に併呑するのは信玄をしても不可能であった。

高天神城が完全に陥落し、さらに武田氏からの家臣たちの離反は止めようもなく、甲斐一国を支える勢力も失ってしまう。
防御に不利な躑躅ヶ崎館を棄て、韮崎に新府城を築城し移転する。城下町を形成する余裕もなく譜代の家臣たちの屋敷を移動させる事で精一杯だった。この時、名残りのない様に、甲府の館や屋敷を打ち壊したと『甲陽
軍鑑』に記されている。

 

一方、徳川・織田氏の攻勢はますます強まって、天正十年(1582)木曾福島城木曾義昌が信長に内通してその軍勢を導きいれようとした。
この年の正月を新府城で迎えた勝頼はそれを聞き木曾征伐に向かった。諏訪の上原城に陣して織田勢の侵入に備えていたものの、織田・徳川・北条氏は連携をとって周囲から甲斐に攻め込んだ。

ここに来てついに親戚である穴山梅雪信君も裏切った為、勝頼は上原城から退却し新府城に火をつけてこれを棄て、重臣の小山田信茂の進めで都留郡の岩殿山城を指して落ちていった。もはや手勢500を切っていたといわれる。

穴山梅雪は、自身が裏切った理由を「親族などの諌めを聞かずに讒人を重用して政治を乱し、強制的な本拠地の移行による甲府家臣団の離反」だと述べている。
平山優氏は「武田氏が滅亡したのは、武田信玄の後継者育成の失敗が最大の原因。彼が抱えた宿命や苦悩の多くは、実は父信玄の負の遺産であった」といわれている。

 

田野の合戦の八日前に高遠城では降伏勧告を蹴って決戦に挑み、壮絶な落城を見せている。勝頼を命を張って守ろうとしたのは仁科盛信と諏訪・伊那地方の人々であった。「勝頼はやはり武田勝頼ではなく、諏訪勝頼であった」(平山優氏)。

勝頼は岩殿山城にて織田・徳川軍らの見守る中、その岸壁で花々しく自刃して果てるつもりであったのだろうか。
新府城を退去した時点で勝敗は決していた。明智光秀が山崎の合戦に破れ勝竜寺城から本拠・坂本城に逃れようとしたのも、柴田勝家が賤ヶ岳の合戦で惜敗して北ノ庄城に逃れたのも、もはや再起を期待できる戦況ではなかった。
いずれの英傑も雌雄を決する決戦で敗れた後は、武士として死に場所を求めてその場を退いている。

(岩殿山城)

 

だが、勝頼のその思惑とは裏腹に、ついには小山田信茂にも裏切られて、最後は織田軍の滝川一益勢に追撃されて田野にて自刃して果てた。
自ら打ち壊した祖父の築いた甲府の町に再び入って、その堅固な要害山城に籠もる事はもはや甲斐の人民も彼自身のプライドも許さず、甲斐から落ちて行こうとした先での出来事であった。

最後まで見捨てなかったわずかな忠臣が防戦するなか、

  「朧なる月もほのかに雲かすみ晴れゆくへの西の山の端」

と辞世を詠んだという。

夫人・子とともに、37年を一期とする波乱の生涯を閉じた。

 

 

勝頼は本当に悲劇の武将である。

信玄の後継者となった時点で、もはや自身の思惑とは別に滅亡の道が敷かれていたのである。父・信玄という人物に及ばなかったのは否定できないが、勝頼その人生が武門一偏通りというのは首肯できない。

信玄の死によって離反が続いたのは、あの名傑信玄の時代ですらその支配体制がいかに脆弱であったかという事の傍証である。名門の甲斐武田家を諏訪家の継承者・勝頼に一任するのはもともと無理であった。
武田氏滅亡の時も、一族はことごとく裏切り離散した。唯一仁科盛信が一矢報いたまでである。

確かに武田軍の名将たちを死なせ、家を滅ぼしたのは他ならぬ勝頼自身の責任である事は間違いない。
勝頼が、その夢を抱き築きあげた韮崎の新府城を今見て回ると、未完成の造りと思われ、甲府の要害山城の方がよほど守りに適しているように感じる。府中を無理に移動させたのも、長篠・設楽ヶ原の合戦以来の斜陽たる武田家を自覚して悶え、自分の血の故郷である諏訪に少しでも近づきたかったのかも知れない。

しかし、設楽ヶ原への進軍や府中強制移動などの失策を除いては、家をよく守り、適切な判断で政治を遂行し、戦国最強たる武田軍を他の大名に畏怖させ続けた英傑であった。

 

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