白山城

鍋山城とも。標高580m、比高120m。甲斐源氏逸見源太清光の子信義は、生地逸見から分封して武田庄の庄官となり武田八幡宮で元服して武田太郎と名乗った。信義は居館を武田に構えて要害城を八幡宮隣の山に築き、城山といったが後世、麓の白山社にちなみ白山城とも呼ぶ。

武田一門の一条氏、その支族武川衆・青木、山寺氏が城代となるものの、江戸初期寛文年間に廃城となった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、縦堀、物見道などの遺構が見られる。昭和四八年、歴史景観保全地区に指定され、平成十三年国史跡に指定された(『現地説明板』)。

白山城は古くから調査研究が為され、甲斐武田氏の築城技術をよく表す優れた城郭との評価を受けている。しかし、築城者や築城年代をめぐる研究は一向に進んでおらず、武田氏の祖・武田信義の要害とされるがその根拠も乏しく、縄張や遺構から戦国期の所産であることがほぼ断定されている(新人物往来社編『新府城と武田勝頼』)。

遺構の保存状況は大変良好で、規模は小さいながら中世山城を肌で実感できる史跡である。放射状連続竪堀や馬出状曲輪をもって甲斐武田氏の典型的な城郭であるという説も強いが、躊躇なく受け入れることはできない。古く武田信義の頃築城され、信玄、勝頼と時代を経て、最終的に徳川家康軍の改修を受けているものと感じられる。

城址へは白山神社から登山道が走っているが、武田八幡宮の駐車場から案内板に従ったほうが分かりやすい。登山は10分程度。

(現地縄張図)

 

(【左写真】本丸。土塁が全周している。【右写真】本丸の虎口ははっきりと確認できる。)

 

(【左写真】本丸の土塁。もともとは2m程度だったかも知れない。)

(【右写真】本丸土塁は石を混ぜて強度を増している。)

 

(【左写真】腰曲輪状の削平地。搦め手から本丸虎口へは必ず通らねばならない箇所。)

(【右写真】二の丸と伝承される削平地。)

 

(【左写真】本丸の南側には空堀とともに犬走り状の遺構がある。【右写真】埋もれているが連続する竪堀も確認できる。)

 

(【左写真】三の丸(馬出曲輪とも)から、土橋を経て腰曲輪への虎口を望む。一番の見所だろう。一応、こちらが搦め手と考えられているが、それも確証は無い。)

(【右写真】城址遠望)

 

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