馬場信房屋敷

武田信玄の重臣・馬場信房は山梨県北杜市白州町教来石の出身とされており、多くの城の城代となっていたが、本拠地としてこの地に屋敷を構えていたものと考えられる。その明確な場所は不明であるが、白洲町白州の自元寺一帯がその跡地であろうと比定されている。自元寺の開基は馬場美濃守信房と伝わり、墓所と位牌を安置する。

戦国時、この周辺に城郭などは存在せず、馬場氏家臣団の屋敷や一般民の住宅地であったと思われるが、この土地に住んでいた人々にとって各地で転戦する信房の活躍は大いなる誇りとして見守られていたのだろう。

 

(【右写真】自元寺 【左写真】馬場信房の墓)

(現在の白州町)

馬場信房

永禄十一年(1514)武田氏最強の武士団・武川氏の出身。もと教来石民部景政と名乗る。諏訪攻め、北信、佐久攻略に戦功を立て、乱行を諫言したため信虎に手討ちにされた馬場伊豆守虎貞の名跡を継いで天文十五年(1546)に馬場民部少輔と改名、永禄二年(1559)には120騎の侍大将に昇進、永禄八年(1565)には老中に取り立てられ、原美濃守虎胤の武名にあやかるよう美濃守の名称を賜わった。

天文二十三年(1554)今川義元に加勢した武田軍は、北条氏康と富士大宮で対陣し、信房は抜群の軍功をたて、義元から感状を受領している。弘治三年(1557)の第三次川中島の合戦では葛山城を奇襲して落城。第四次川中島の合戦では妻女山攻撃隊に加わったとも云われる(『甲陽軍艦』)。永禄十一年(1568)には山県昌景とともに先鋒として駿河今川氏へ侵攻。薩た峠を抜き、今川家の本拠今川館を陥落させる。信玄から今川家の財宝を焼失するのは惜しいから屋形を焼くなとの命を受けたが、「信玄公が財宝目立てで今川を攻めたと評判されてはならない」と信玄に対して諫言したと云う(『甲陽軍艦』)。元亀元年(1570)信房は高坂昌信らとともに制海権を奪取して小田原城を包囲する目的で北条方の興国寺城を攻める。元亀三年(1572)三方ヶ原の合戦では武田勝頼とともに第二陣で戦ったとされる。戦後、信房は三河武士の見事な討ち死ぶりを誉め「五年前に初めて駿河に侵攻した際に家康と昵懇の仲になっていたら、今頃は中国地方まで武田氏の配下となり、天下は思うままであったろう」と信玄に語ったと云う(『改正三河後風土記』)。

馬場信房の最後

天正三年(1575)長篠・設楽ヶ原の合戦では、決戦を避けて甲斐に帰陣するよう諫言するが、勝頼に聴き入れられなかったのを悲嘆して、武田氏の家運もこれまでと絶望し、山県や内藤などの老臣らと水盃を酌み交わし、生前の別れを惜しみ今生の別れをした(『改正三河後風土記』『長篠日記』)。設楽ヶ原での決戦では「馬場美濃守生前の働き比類なし」と伝えられるほどの奮戦をする(『信長公記』)。五番手で打ち太鼓を鳴らして突撃し(『信長公記』)、滝川一益、佐久間信盛と火花を散らして戦った(『松平記』)。壊滅する武田軍の中で唯一徳川勢を打ち破り、傷ひとつ負わなかったものの、一条信竜の下知によってにっこりと笑いながら退却した(『甲陽軍艦』)。信房は残兵を集めて小山(現在の須長南の「丸山」)に上がって旗を立てて休ませ(『武徳大成記』)、武田軍の殿軍は信房と内藤昌秀らが受け持ち(『松平記』)、「橋場」から少し引き返して、高い所に登り、「自分を討って覚えにせよ」を叫び、抵抗することなく首を差し出した(『甲陽軍艦』)。討ち取った人物は織田軍の原田直政家臣・河井三十郎(『松平記』)ともされるが、織田信長自身の感状から岡三郎左衛門であることが確実である。

(長篠城近くの馬場信房の首を埋葬したと云われる場所)

(馬場信房の肖像画は伝わっていない。写真は後年武田24名臣の編纂時に描かれたもので、真の姿を伝えているものとは思えない。)

 

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