日之出城

鷹巣城、日之城とも。西部は断崖に臨み、要害を誇る。この地は、室町時代の初期応永・永享(1394-1433)の頃、武田右馬助信長に日一揆が属し、武田氏再興の拠点として活躍した所である。その頃、逸見・跡部両氏に輪宝一揆が与して対立し、抗争を繰り返したが、永享五年(1433)四月、信長・日一揆は輪宝一揆と荒川原で激戦を交えたが、大敗を喫し総崩れとなった。以来城域は廃墟と化したが、天正十年(1582)北条氏侵入により、徳川家康は城を再興・修築してこれに備えた。城名は日之城の区名として、城址はトリテ・土居・官女屋敷・牛が馬場などの地名が残り、砦・空堀の遺構もあって、往時を偲ばせている(『韮崎市教育委員会・現地説明板』)。

城址は塩川沿いの断崖上に位置している。現地の遺構図によれば郭や空堀などが近年まで残されていたようだが、現在は中央自動車道が貫通し、また一面耕作地化し、城址碑以外にこれと分かるものは確認できなかった。

韮崎市穂坂町三之蔵の日乃城地区に進むと、随所に城址への案内板が設置されている。中央道に架かる「砦橋」一帯が城址。

 

(【右写真】城址碑。背後は本丸にあたるようだ。【左写真】城域は耕作地になり遺構は確認できず。)

(現地縄張図)

(中央道の「砦橋」。この脇に城址碑などが設置されている。)

 

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