長坂釣閑斎屋敷

16世紀、武田氏に仕えた長坂氏がこの地を支配し、ここに居館を構えたと伝えられており、昔からこの丘陵一帯は「長閑山」と呼ばれている。東西60m、南北80mの方形に土塁がめぐり、その外側に幅2-3m、深さ1mの空堀が、北側を除く三方を囲んでいる。南側には土橋、虎口がある。長坂氏は、戦後後期、武田氏に仕えた一族で、信州諏訪方面の領国経営を行った。三代・釣閑斎は武田勝頼の側近であり、天正十年(1582)三月の織田信長軍の甲斐攻略による勝頼滅亡の際に甲斐において自害した。『甲斐国志』によると、天承十年(1582)本能寺の変後の甲斐領有をめぐる徳川氏と北条氏との争い(天正壬午の戦い)で、北巨摩地方の北半に布陣した北条氏が改築したとしている(『現地説明板』)。

長坂釣閑斎は、跡部勝資とともに、武田勝頼が政治を乱すに至った讒言を繰り返した悪人として有名である。しかし彼らは「いずれも信玄時代から政権の中枢にいた家臣で、何も勝頼が登用したわけではな」く、「長篠合戦までは、信玄以来の重臣層の比重も大きく、目を引くような台頭」ではなかった(新人物往来社『新府城と武田勝頼』所蔵「武田勝頼の再評価」平山優)。

また、最後に勝頼を裏切った一族・穴山梅雪も「常用讒人乱、不聴親族諌」(讒人をいつも重用して、親族の諌めも聴かずに乱した)と勝頼を酷評しているが、これも自身の離反の口実を述べているもので、そのまま受け入れることはできない。長坂釣閑斎の実績については史料が少なく、不明確とするのが正確だろう。『甲陽軍艦』を筆頭に、両氏を誇張的に悪人化した叙述が史実としてとらえられるようになったと思われる。彼は田野で勝頼とともに討死しており(太田牛一『信長公記』)、最後まで武田氏を支えた忠臣とも評価できる。

屋敷跡地は整備されておらず、夏場の調査は困難である。地形的には要害性は薄く、徳川家の改修というよりも、元の長坂氏の居館のままという感じがする。場所は非常に分かりにくく、北杜市長坂町長坂上条に流れる「白井沢宮川」沿いにある丘陵。「堂宮橋」から正面に見える丘で、登山道に説明板が設置されている。

 

(【右写真】跡地は薮化しており、冬場に訪問すべき。【左写真】かろうじて空堀らしき地形があった。)

 

(【右写真】現地説明板 【左写真】白井沢宮川の「堂宮橋」から遠望する。

 

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