海尻城

前山城主・伴野氏の井出長門守の築城というが時期を含めて詳しい事は分からない。

村上氏の臣薬師寺右近らがこの城を守っていたが、天文九年(1540)武田軍の重臣・板垣信方が知略をもってこの城を陥れ、本城を小山田備中守昌行に守らせた(一説には勇略あり守備の術に優れていた昌行の父昌辰とも云われた)。二の丸は日向大和守昌時に、三の丸は長坂左衛国清が守った。しかし同年12月海尻の地侍の一揆がこの城を囲み攻めた。一揆軍によしみを通じていた村上氏の将・額岸寺和泉光氏等が二の丸まで陥れたが、本城は固く守り降らず甲州からの武田軍の到着により村上勢は敗退した。(海尻城の合戦・『戦国合戦大事典』)

武田信虎はこの勝利によって得た海尻城を前進基地として5月には佐久に攻め入り、36城を落とす。その後武田氏の手からも離れた様で、信玄の佐久侵攻の際に再び武田軍の攻撃を受けている。

国道141号の交差点に「海尻城址」とあり、交差点のすぐ脇の医王寺の境内から登山道あり。

(自作縄張図)

  

(【左写真】城址の全景。手前の寺は医王院で境内より登山道がある。【右写真】二の郭。奥の石碑付近は主郭。)

  

 (【左写真】主郭の奥の日向山から城址を望む。【右写真】三の郭で二の郭よりやや下ったところにある。)

(いずれも規模は小さく、現在ではその堅固ぶりは垣間見られない。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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