浦賀城

標高55m、比高54m。戦国時代、三浦道寸の築城。

平時から兵器、兵糧の貯蔵庫として、戦時は兵員の宿舎として使用されていたとみられる。三浦氏滅亡後、後北条氏が接収、江戸湾の向かい里見氏との争いで、その拠点として重要な役割を果たし、三浦半島や鎌倉まで進攻してきた里見水軍に対抗したとされる(『日本城郭大系』)。この水軍城に入っていた者として、愛洲兵部少輔や高尾某が伝わっている(『小田原衆所領役帳』)が、天正十八年(1590)に後北条氏が滅亡すると共に廃城に帰した。

城址は郭のほかに明確な遺構はないようである。周囲は切り立った地形で、高度な縄張りは用いず、単なる駐屯地だったと感じられる。浦賀港の入口の丘に位置し、東叶神社の脇から登山道がある。登山は5分程度。

 

 (【左写真】浦賀城頂上部。平場になっているがどこまでが遺構かは不明。【右写真】複数の曲輪には神社も祭られている。)

 

 (【左写真】現地説明板 【右写真】城址遠望)

 

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