三崎城

三浦城、宝蔵寺城、北条山城とも。

海に望み丘陵に地の利を得、土塁、空堀を幾重にも組み合わせた中世の山城。築城の年月は不明であるが永正十五年(1518)七月十一日北条早雲に敗れた三浦義同が新井城(油壺)に亡ぶとき三崎城も共に落城した。その際、囲みを破った城兵は城ヶ島に逃れてなお抵抗を続けたという。その頃、三浦氏は戦国の風雲に乗じ相模一円に領域を拡げていったが、三崎城は三浦一族累代の居城・新井城の背後を守る重要な支城であるとともに、水軍の根拠地でもあったといわれている。落城の後、後北条氏はこの城に五代に亘り兵を置いたことから今に北条山の地名が残っている。しかし天正十八年(1590)豊臣秀吉に攻められ、小田原北条氏の滅亡にともない廃城となった(『三浦市・現地説明板』)。

明治十六年(1883)の地図では土塁が良く残っていたという(『日本城郭大系』)が、現在では三浦市役所、図書館、三崎中学校などが建設され、ほとんど遺構は無くなってしまった。眼下の港は「北条港」と呼ばれ、戦国時代の後北条氏の重要な水軍湾だったのだろう。なお城址説明板は市体育館の脇に建つ。

 

 (【左写真】三浦小学校と三崎中の間は高低差があり、連郭式城郭の名残か。【右写真】周辺の土塁跡。)

 

 (【左写真】かつての空堀は車道になっている。【右写真】城址石碑)

 

(現地縄張図)

 

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