新井城

三浦一族滅亡の地で、面積約128ヘクタール。相模湾に突き出た小半島に位置し、小綱代湾と油壺湾に挟まれて、三方をいずれも海で囲まれ、切り立った断崖である。陸地に通ずる路は、北方約3キロの大手の引き橋で、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていた。引き橋は後に地名になったが、ここで北条軍は橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれたという。現在は関東大地震による隆起で、往時の面影は薄らいでいるが、当時としては大軍をもっても攻めがたく、わずかの手兵で三年間も持ちこたえた。いずれにしても室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができる(『三浦市・現地説明板』)。

築城年代は不明だが、衣笠城を本拠とした三浦氏が滅亡すると、それを継承した佐原氏の拠点として築かれたようである(『三浦半島城郭史』)。明応三年(1494)には、城主・三浦時高と養子・三浦義同の内訌で落城して三浦義同が奪取、彼は一時大田道灌に従ったが、その後、山内上杉氏に属している。戦国期に至った永正九年(1512)から同十三年に亘って、北条早雲と三浦氏はこの城で攻防を繰り広げている。早雲は新井城を力攻めで落とすことができず、持久戦となり、玉縄城を築いて武蔵方面の援軍を断ち切った。兵糧尽きた三浦義同は子・義意と共に城門を開いて打って出て、華々しく討死を遂げ、一族は滅亡した(『日本城郭大系』『北条五代記』)。

城址は、ほとんどが東京大学の敷地になり関係者以外は立ち入ることができないが、ハイキングコースから傍観することができ、大規模な空堀と土塁を確認できる。おそらく後北条氏時代の遺構であろうが、周辺は断崖で、その要害ぶりを垣間見る。また近く「内の引き橋」と呼ばれる堀切が配され、さらに3q離れた所に「引き橋」という地名がある。ここまで城域なのかは躊躇するが、三浦半島の城址としては最も優れた史跡であろう。なお「油壺」の由来は滅亡時に三浦一族が投身し、湾が血で覆われたことによるという。

城址へは油壺マリンパークを目指して行けばよい。

 

 (【左写真】大規模な空堀。城の規模が偲ばれる。【右写真】ハイキングコースと土塁跡。)

 

 (【左写真】近く「内の引き橋」。ここからが城内であろう。【右写真】城址から油壺湾を望む。)

 (現地案内板)

 

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