大庭城

標高42.8mの大規模な平山城。東方を引地川、西方を小糸川に挟まれた要害の地にある。

成立年代は不明で、室町時代後半に相模国で威勢を誇った扇谷上杉氏の拠点されている。明応八年(1499)には、「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」と記され(『玉隠和尚語録』)、扇谷上杉氏の「一人」が大庭城で守りを固め、大庭氏の居館はその近くにあったことが分かる。(大庭氏館は大庭城址南西の(たて)にあったと考えられている。)また、その家宰・太田道灌の勢力が及んでいたようでもある。

戦国時代、永正九年(1512)に北条早雲は鎌倉入りしており(『快元僧都記』)、すでに藤沢一帯も後北条氏が領していたとされる。しかし、戦国期の史料も少なく、福島左衛門という人物が城主であったらしい(『小田原衆所領役帳』)ことを知るのみである。

従来、大庭城は玉縄城の支城とされ、後北条氏時代には廃城になっていたともされるが、出土した遺構や城の規模から、後北条氏によって改修された可能性が高い(『日本城郭大系』)。

城址は、かつて約南北800m、東西250の台地の全域を城域とし、北に駒寄・二番構、東に門先、西に裏門・城下などの地名が残ることから、周辺にも城に関連する施設や大規模な城下が存在していたとされる。 しかし1970年代ニュータウン化で北側が宅地化され、現在は南部の450mほどが城址公園として名残りをとどめている。

広大な大庭城址公園だが、意外にも良好に遺構が残存している。現在四つの大郭に、馬出しのような小郭、腰郭、大規模な空堀、土塁などが散見され、城好きには是非とも藪の中に進入して確認されたい。

(城址公園管理所に掲載の縄張図)

 

 (【左写真】城址石碑 【右写真】一の郭。礎石が出土し、建築物があったのは確実である。)

 

 (【左写真】一の郭と二の郭間の空堀 【右写真】二の郭)

 

 (【左写真】三の郭【右写真】二の郭と三の郭間の空堀。大規模で、クランク状に横折れしている。)

  

  (【左写真】三の郭から空堀越しに二の郭を望む。【右写真】三の郭のクランク状空堀を巻く土塁。)

 

 (【左写真】四の郭。相当に広大。【右写真】三の郭と四の郭間の空堀もわずかに残り、クランク状を確認できる。。)

 

 (【左写真】一の郭南の小郭。馬出しのようにも見える。【右写真】一の郭と小郭間の堀切。ここは虎口だったものか。)

 

 (【左写真】藪の中に進入すれば腰郭など複雑な遺構が良好に残存しており、規模の大きさを垣間見る。【右写真】城址遠望。)

 

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