玉縄城

甘縄城とも。標高71m、比高45m。

永正九年(1512)北条早雲(伊勢新九郎長氏)築城。当時小田原城にいた早雲は、関八州制覇の過程で、三浦半島の新井城を本拠とする三浦義同と衝突、三浦半島の基部であり交通の要衝であったこの地に向城を築いた。永正十三(1516)新井城に兵糧を送ろうとした上杉朝興の軍勢を早雲は玉縄城の北方に陣取って対抗、まもなく新井城は落城した(『北条五代記』)。

大永六年(1526)二代当主・北条氏綱の弟・氏時が城主となり、房州国・里見氏が鎌倉に乱入した際、彼は玉縄城を背に、戸部川(現・柏尾川)で防戦した。氏時歿後は猛将・北条綱成が城主になる。

永禄四年(1561)上杉景虎(謙信)の小田原城攻撃の帰路、鶴岡八幡宮へ拝賀し管領就任を披露すべく鎌倉へ立ち寄った際に玉縄城は囲まれたが、城主・綱成は不在だったもののその長子・氏繁がよく守ったので越後へ引き上げた。

永禄十二年(1569)武田信玄の小田原攻めの時は、藤沢のおんべ山砦大谷城)を落としたものの玉縄城は素通りしている(『北条記』)。これは上杉謙信でも落とせなかった堅城ぶりを信玄がよく理解していたからだとされる(『日本城郭大系』)。

綱成の引退後は氏繁が城主となり、天正六年(1578)氏繁が歿するとその子・氏勝が城主となった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、氏勝は山中城へ援軍したが、大軍の前に落城。恥辱を感じた氏勝は、当主・氏政が小田原城に篭城するよう命じたが、「玉縄城を枕にして討死すべし」と答えて玉縄城に籠城。頑強に抵抗したが、徳川家康の策によって、氏勝の叔父である大応寺住職・了達を通して説得し、開城となった。その後、本多正信、水野正忠などが入城したが、元録十六年(1703)に廃城(『日本城郭大系』)。

城は大規模な山城で、後北条氏系城郭有数の堅牢ぶりであったが、本丸跡には清泉女学院が建ち、また周囲も新興住宅地と変貌した。「諏訪壇」など、ところどころに遺構が残ってはいるようだが、細かく散策できない状況である。昭和三十年代の航空写真を見るに、本当に残念なことである。

(昭和三十年代の玉縄城航空写真・新人物往来社『日本城郭大系 第六巻 千葉 神奈川』より転写)

 

 (【左写真】本丸の清泉女学院。警備が厳しく近寄ることも憚られる。せめて男子校であったなら…。)

【右写真】「太鼓櫓」と思われる付近には、それらしい地形・林はあるが、遺構はなさそうである。)

 (「くいちがい」と思われる地域は、今でも建売り住宅が新築中。)

 

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