福与城

この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城跡である。創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。

天文年代(1532〜1555)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあり、天文14年(1545)に落城し、城は焼失した。

城跡は幅が東西約330m、南北約440mで、本城,北城,南城に区分されている。本城は第1・第2郭に分かれ、空堀を隔てて北城に対しやや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。武田氏によって城の建物の焼却があったものの当時の遺構を良く残しており戦国時代の居館と軍事的防防塞の機能を兼ね合わせて平山城の様相を知ることが出来貴重な城跡であるという。

福与小学校の脇に登り口があって、そこから訪問したが、他にも車で城址まで上がれる道もあるようだ。周囲は切り立った崖の要害で、規模は大きく、この地域の平山城としては随一だ。

(【左写真】城址遠望 【右写真】本郭址)

(【左写真】本郭から南城を望む。ここに武家屋敷もあった。【右写真】本郭と北城を分ける空堀)

(【左写真】北城で土塁と空堀あり 【右写真】城址の周りは沢が流れ、天然の堀を形成)

 

 

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