知久平城

この城は鎌倉時代早期に、諏訪大社大祝神氏の分流である知久氏が、上伊那郡箕輪の上の平城より地頭として知久平に移り築城した平山城である。室町時代に神之峰城に本拠を移して、ここは出城となった。

知久氏は小渋川より万古川にまたがる竜東地方を支配した。また文永寺・知久平諏訪神社等を建立して信仰も厚かった。知久氏は1554年武田氏によって滅ぼされ、ここは武田氏の支配するところとなったが、1582年に武田氏が滅亡すると、菅沼定利の居城となった。定利は城を拡張整備する。知久氏はその後に徳川家康に認められて、江戸時代には喬木村阿島に旗本として陣屋を構えて活躍した。

神之峰城に向かう途中に下久堅小学校があって、そこの北側の路地を進んでほどなく幼稚園がある。そこに城址の詳しい説明看板がある。それに従って果樹園の中を進んでいくと10分ほどで本丸址。ここには「知久平城保存会」という方々の尽力で碑や案内板がとても充実している。

 

(【左写真】は本丸にある土塁。もともと物見台があったのかも知れない。【右写真】本丸全景)

(二の丸だが、遺構はハッキリせず、それぞれの区別も困難である。)

 

(【左写真】三の丸 【右写真】近くの幼稚園脇にある土塁。全体に保存状況は悪い。)

 

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