旭山城

標高785m、比高100m。

旭山城の築城はかなり古いらしく、村上氏の朝日右近が守将をしていた時期もあったという。

現在見られるようなの本格的な城郭に改修したのは武田信玄が川中島に進出してきてからと考えられる。川中島の第二回目の戦い・治元年(1555)では上杉謙信が善光寺脇にある横山城に陣を張ったが、信玄とよしみを通じていた善光寺別当職の栗田鶴寿は旭山城に籠もって武田軍に加味し、信玄はそこに3000の兵や300の銃を送り込んで支援したという。一方、謙信は付け城である葛山城を築き、長期戦の様相に及んだが、今川義元の仲介によって和議が成立し、旭山城は破脚され、両氏は軍を退いた。

弘治三年(1557)には講和を無視して武田軍が葛山城を急襲し落城させると、謙信も出陣し旭山城を改修して守兵を置いた。

永禄四年(1561)第四回の川中島の戦い以降、武田氏が川中島を制圧すると海津城などの平城が重要な役割を果たし、険しい山城である旭山城の役割も終わった。

旭山観世音の少し先に登山道があり、15分ほど登るが、それほどキツくはない。

 

(【左写真】本郭址。かなりの面積で周囲は堀で囲まれ、土塁がめぐっている。相当な堅固なつくりである。【右写真】二の郭と思われる地点より本郭を撮影。)

 

(【左写真】本郭の土塁 【右写真】石積み。葛山城よりも遺構は良く残っており、厳重な縄張りである。)

 

 (【左写真】城址からかなり下りた場所に広い平らな場所がある。城主の館があったのであろうか。【右写真】葛山城から見た旭山城の全景。この頂上が主郭でここも険しい山である。)

 

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