勝間田城

勝間田氏は、この地方を本拠地とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府のご家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌集」を編纂している。

元弘の乱(1331)には、河内(現在の大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録に見える。

室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1399)や永享の乱(1439)に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8年(1476)遂に落城。一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられている。

 応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的な山城で、牧ノ原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪,土塁,堀切が設けられ、南東部の尾根には田の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見あたらないが、遺構からはその後手が加えられた形跡が認められる。

  

(城址大手口、本曲輪、本曲輪南側の土塁)

  

 (二の曲輪、三の曲輪と二の曲輪にある土塁が崩れたもの。構造がよく分かる。遺構から戦国時代に改修されたのは間違いないだろう。)

 

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