池上氏館

標高24m、比高12m。鎌倉時代、池上宗仲の創建。

鎌倉時代池上一帯を支配していた豪族・池上氏は、現在の本門寺のある場所に館を築いていたらしい(『日本城郭大系』)。本門寺の塔頭(たっちゅう)のひとつ「大坊本行寺」は、館跡であり、日蓮日蓮聖人が、弘安五年(1282)年十月十三日辰の刻(午前8時頃)61歳で入滅(臨終)した霊跡。上人が入滅すると、宗仲はその宅を捨て、日澄に託したとされる(『新編武蔵国風土記稿』)。

日蓮聖人は、同年九月八日にそれまで9年間棲んだ身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かい、その途中、この武蔵国池上の郷主・池上宗仲の館で亡くなった。池上宗仲は、日蓮の弟子である日澄に帰依して館跡に本門寺を建立したという。

 

池上氏館の遺構について、『日本城郭大系』には「現在では館址らしいものはなく、ただ高台の末端に位置するだけで、居館の置かれる場所にふさわしいだけにすぎない」と記している。

一方、かのう氏からの情報として、遺構は残るとする大田区教育委員会の所見がある。(弊サイトでは、これまで池上氏館を遺構無しと紹介していましたが、この度、ご指摘により再調査を試みました。謝して訂正致します。)

それによれば、池上本門寺境内よりやや西側、大坊本行寺が位置する谷間が池上氏館の根小屋に相当し 、現在紀州徳川家内室(徳川家康の側室お万の方)の墓が並ぶ一角の西側の土手は、 池上氏館の根小屋の土塁と考えられる。( 『考古学から見た大田区』大田区教育委員会社会教育部社会教育課文化財係編 大田区教育委員会, 1993 (大田区の文化財 ; 第29集,第30集)

また、本行寺には、「ご臨終の間」、「御硯井戸」(日蓮が硯と筆を洗ったという井戸)、「お会式桜」(日蓮入滅の折、花を咲かせたという桜)など、ここが日蓮入滅の傍証を示すものが残されている。

上記「根小屋の土塁」とされる場所であるが、丘陵の中段に位置し、徳川家の墓所を守るような地形を有した2m-5mほどの土井であった。根小屋とされる本行寺との比高は10mほどであろうか。ただ、瞥見ではあるが、もともとの斜面を利用したものと思われ、土塁というよりも切岸に感じられる。とすれば、この遺構は、根小屋(本行寺)を防御するための設備とは考えられず、現在の徳川家墓所の曲輪を守るものと考えるのが自然である。墓所が築かれる以前にここに曲輪があったのかは判然としないが、丘陵の段郭として何らかの城砦設備があったことは否定できない。しかし、結論的には、地形・縄張り的にここに高い土塁を配する必要性が感じられない、後年の改変の可能性が高いなど、往時の遺構と即断するには若干躊躇した(以上、私見)。徳川家墓所は本行寺の上手、「宝塔」の裏側に道があり、数段登った場所である。

なお、中世までは本行寺方面が池上本門寺の表門だったといい、加藤清正が寄進した石段のある現在の総門の方向が表門になるのは、徳川家康の関東入府以降のことという。

 

(本門寺境内)

(氏館址・本門寺の遠望)

 

(【左写真】前田利家の側室・寿福院が1622年に逆修供養の為に立てた層塔)

(【右写真】加藤清正室の正応院が1626年に逆修供養の為に立てた層塔)

 

(【左写真】本門寺五重塔(1608年建立)【右写真】加藤清正が1606年頃に寄進した「此経難持坂」の石段)

 

(【左写真】加藤清正供養塔 【右写真】「大坊坂」。かつての表道で、大手口であったかも知れない。)

 

(【左写真】根小屋とされる本行寺 【右写真】ご臨終の間 )

 

(【左写真】お会式桜 【右写真】御硯井戸 )

 

(【左写真】「土塁」とされる場所。この向こう下に本行寺がある。 【右写真】「土塁」の上の状況。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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