葛山城

標高812m、比高110m。

葛山城主落合備中守は村上義清に従い、越後の上杉謙信の庇護を受けていたという。城は川中島と善光寺を支配する上杉方の重要な前進基地であった。

そこで北信濃を掌中に納めようとする武田信玄は、弘治三年(1557)越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見計らい、二年前に結んでいた和議を反故にして、部下の馬場美濃守信房に命じて17000余の大軍でこの城を攻撃した。城は高い崖の上にあり堅固な防塁を備えており、信玄の開城勧告を断固拒否した落合備中守も勇猛に自ら進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。しかし、城は水が不自由であった。武田勢は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め、城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風に煽られた火の勢いは山を包み、防塁は炎の中に崩れ落ちた、城兵必死の抵抗もむなしく備中守は奮戦して討ち死にし、落城した。武田軍のとった首はおびただしい数であったという。また、逃げ場を失った多くの女性達は、峰の上から身を投げて新だ。姫谷と呼ばれる谷底からは、後の世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと伝わる(『現地説明板』)。

本丸跡には城主の嘆きを語る祠が安置され、今でも周囲から焼米が掘り出されるという。

葛山神社に登山道があり、そこそこにキツい登山15分強で城内へ。

   

(【左写真】全景。非常に険しい山だ。手前の白点はリンゴ畑のリンゴの花。【右写真】頂上にある主郭址。ここからは旭山城大峰城がよく見渡せる。)

 

(【左写真】二の郭から本郭を見る。その他にもいくつかの郭址が【右写真】のように確認できる。しかし一帯は笹が生い茂り調査は困難。)

  

 (堀切もいくつか見られる。【右写真】城内に入ってすぐにある井戸。この城は水に不足したというから、後世のものかも知れない。)

 

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