戸倉城

標高434m、比高210mの山城。小宮城、大石定久隠居城とも。

『新編武蔵国風土記稿』は、戦国時代、上杉氏の庶流である小宮氏が築城し、当主・小宮上野介憲明の居城であろうとしている。小宮氏は十五世紀頃に武州南一揆((秋川谷から南多摩地域にかけての農村の武士集団)の一員として秋川谷に君臨した土豪であった。その後、天文一五年(1546)頃、滝山城主・大石定久は後北条氏に圧迫を受け、嫡男を廃して北条氏照に名跡を譲った。大石定久は隠居先として戸倉に逃れ、光厳寺に居住し、戸倉城は詰の城として利用されたとみられる。

甲斐の武田氏への押さえとして中継の役割を持っていたが、天正一八年(1590)八王子城の落城とともに廃城となった。

城址は烽火台程度の規模で遺構も芳しくない。本郭に数段の帯郭、西郭、空堀などを確認できるが本格的な城郭とは思われない。

城址への登山道は複数ある。大手道は明神神社からの道で、きれいに整備されており30分で本郭。また光厳寺の境内に城址説明板があり、そこから登山道もあるが、一番の近道は光厳寺の墓地から尾根まで直登ルートで20分にて山頂まで行ける。ただ道はなく厳しい登山。

 

 (【左写真】主郭で広くない 【右写真】大手道である尾根鞍部から虎口、帯郭、本郭を見上げる。)

 

 (【左写真】西郭の主要部で見晴台程度のもの 【右写真】現地には複数の説明板がある)

 

 (【左写真】城址遠望で、この山の頂上 【右写真】本郭から五日市方面を俯瞰する)

 

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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