石神井城

比高7mの平山城。起源は鎌倉時代で、本郭的な城郭としての改修は15世紀初頭の関東動乱期と推定されている。『新編武蔵国風土記稿』は、はじめ豊島泰景が石神井城主となり、ついで弟の景村が元弘年間(133134)に在城したとする。長尾景春の乱は、文明9年(1477)4月13日、に平塚城から開戦され、太田道灌は平塚城を包囲、城下を放火し、江戸城への帰陣途中、平塚城の救援に向ってきた石神井城主・豊島泰経を迎えうち、熾烈な遭遇戦となった。奮戦むなしく豊島軍は惨敗を喫し、泰経は石神井城に逃れ帰った。道灌はこれを追撃し、愛宕山に陣を張り、石神井城を包囲、豊島泰経は降伏する。石神井城破却を条件に和議が成立しが、それを実行しないため道灌は再び攻撃をかけ、石神井城は落城した。泰経は夜闇にまぎれて平塚城へ逃れ、翌年平塚城が道灌によって攻め落されると、小机城へ退避、豊島宗家は滅亡した。

城址は石神井公園となり、土塁、堀がよく残っており、規模の大きさを垣間見せている。空堀は横矢状に折れになっていて、かつては三宝寺にも遺構が確認できたという。ここは城址というよりも公園としての方が素晴らしい。

 

(【左写真】土塁と空堀 【右写真】現地説明板)

 

(【左写真】城址下の石碑 【右写真】城址遠望)

 

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