鞍骨城

標高798m、比高360m。

信州の豪族である村上氏の領地であり、村上氏の家臣である清野氏の要害であった。永正年間(1504〜1521年)に清野山城守勝照が築いたという。西に少し離れて小枝城跡、又その西北の下に少しの水を湧出するあり水の平という場所があるという。清野氏は清野中沖に清野屋敷と称するものがあったとも伝えられている(『現地説明板』)。

現在の松代・千曲地方には街道を監視する為に築かれたと思われる山城がいくつかあり、それらを総括したのが尾根伝いの鞍骨山山頂に築かれた清野氏の本拠である鞍骨城である。鞍骨城をもって中心的な城郭とし、また各城の詰めの城としていたという。このような防御体制が武田信玄と上杉謙信の川中島合戦の前に出来あがっており、それが川中島の戦局にも大きく作用したという(『真説・川中島合戦』)。

天正十二年(1582)の武田滅亡、本能寺の変後に川中島地方を上杉氏と後北条氏が争った際には、上杉軍がこの山一帯を制圧し、鞍骨城には直江兼続が入城して、北条軍が制圧していた海津城を眼下に睥睨して退散させ、この戦いに勝利している。

「あんずの里」の一番奥の倉科の竹尾地区に進んで、一際高くそびえる山が城址である。山麓に「鞍骨城約60分」の案内板があって、そこから少し車で登れる林道がある。ちょっとすると二手に道が分かれていて「妻女山ハイキングコース」というケモノ道に進む。尾根まで出ると再び分岐していて今度は三方向に分かれている。右に進むのが城址への道である。

 

  

(頂上部の主郭址。奥に土塁が見られ搦手の防御をしている。その土塁から撮ったのが左写真。)

 

(主郭から二の郭を下に見る。相当に険しく、もはや道もない。右写真は主郭の石積み。)

 

(二の郭から主郭を見上げる。随所が石積みで囲まれている。右写真も二の郭。)

 

(主郭の全景。まさに要塞といった様相で右写真のような石積みがいたるところに見られる。しかし道がないので、その崖をよじ登らねばならない。)

  

(やや下ったところには堀切がいくつか確認できる。特に右写真の堀切はかなり深い。)

 

(堀を横から見たもの。他にも右写真のように複数の堀切が厳重に巡らされている。)

 

 (左写真は登山道の途中にある石像で、かなり古そうなもの。この奥が城址。右写真は全景。中央の一番高い山の頂上が城址。登山道は妻女山の奥からもあるらしいが、この写真はあんずの里より撮影。こちらにも登山道があるが約1時間ほどを要する険しい山道である。城内に入るともはや道がなくなり、石垣をよじ登ることとなる。ほとんど訪問する人もいないのであろう。それだけ山奥である。)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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