川崎堀の内

 

川崎堀の内(★神奈川県川崎市川崎区堀之内町)

平安時代末期に河崎冠者基家がここに居館を構えたのが起源という。

河崎基家は坂東平氏の秩父氏の末流といわれ、基家がここに知行を受けて、その地名を名乗ったことで河崎氏は始まったようである(『日本城郭大系』)。

戦国時代にも多摩川がこの地域のすぐ南側を流れ、堀の内はその渡河地点を押さえる重要な立地を誇っていた。当時はここ一帯は後北条家の勇将である間宮氏の領するところであり、間宮氏は武蔵国進出の先鋒的な役割を負っていたことから、それなりの城郭を築き、その名残りが地名として残っているのではないだろうか(『日本城郭大系』)。

稲毛神社(神奈川県川崎市川崎区宮本町7−7)が館跡の有力地とされており、現地にはいろいろな解説板が設置されている。

当社は明治維新まで山王社と呼ばれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発して「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名で、当社も同荘の鎮守として勧請されたと考えられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永十一年(1404)大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、二十石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。

弁天池(河崎冠者基家居館堀跡)

河崎冠者基家は、板東平氏の雄・秩父十郎武綱の子で、平安時代に荘園を開いて、その子・重家との二代に亘り地を領したという。その居館の跡とも推定されるのがこの辺りで、当時の荘園領主は、館の周囲に堀を巡らせていた。
かつて、ここから第一国道に沿って小堤をともなった小川が流れていたが、この辺りの地名を「堀之内」ということからも、それは堀の遺構ではなかったのかと考えられる。この池と小川は昭和20年代に第一国道拡張の際に埋め立てられ、その後は、小川をせきとめて造った小さな弁天池だけが残されていた。

 

(今では関東屈指の風俗街と成り果てている。)

 

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