泉頭城

 柿田川の水源地・泉頭に弘治年間(15551558)、小田原城の出城として北条氏康によって築城された平城。

城域は東西400m、南北500mあり、二ノ洞,三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これを取り囲んで北ノ曲輪,東ノ曲輪,西ノ曲輪,舟付曲輪,小曲輪,第六天曲輪,南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノ口出丸が築かれていた。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人口の空堀で防御されており、土橋と木橋が配されていたという。

永禄12年(1569)後北条氏は家臣・多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆戸倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵略に備えた。天正8年(1580)武田勝頼の攻撃の際は荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将がそれぞれ百騎ずつ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡を取り合ったといわれる。

天正9年(1581)戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われたようである。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破棄し、城兵は韮山城と山中城へ引き揚げた。

元和元年(1615)徳川家康はこの泉頭城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣・土井利勝、本多正純に隠居用の御殿の城を造営することを命じたものの家康が歿したので取り止めになった。大正の頃まで城跡はよく残っていたというが今ではその旧状をうかがうことは困難だ。

(城址の柿田川公園)

 

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