高麗寺山城

標高168m、比高150m。高麗山城、住吉古城とも。

永正七年(1510)北条早雲は「子息・新九郎は小田原城に留め、自身は松田、大道寺らの軍勢を引き連れて出陣し、高麗寺山並に住吉古城を取り立てて篭った」(『小田原記』)。

しかし、城の場所は諸説あって、『新編相模国風土記稿』は「詳らかではないが、高麗山の頂上に在ったという」とし、『大磯誌』は「塁湟の址はないが、山上に在った」と記し、その後『大磯町文化史』『神奈川の城』も山頂説を継承したためそれが通説となった。

一方で『日本城郭大系』(田代道彌氏著)は、「山頂の社地やその西方に城郭遺構は存在しない」とし、二条の堀切も単なる自然地形と判断されている。そして、もともと高麗寺のあった標高12mの台地を跡地と推察するに至っている。

高麗山は、花水川と相模湾に囲まれた要衝の地で、小田原から武蔵方面へ進出すると、平塚・茅ヶ崎などの平野を見通せる重要な山であることが分かる。この山に城郭を築くメリットは現代の我々でも一目瞭然である。山頂の平場は、後年、神社が建設され改変を受けている。一見土塁に見えるものも、自然地形を掘削した地形で神社建築時の造成のようである。ただ、山頂付近には腰郭と認められる削平地があることから、ここに城砦が存在していたと考えてよいだろう。また、西方にある二条の堀切については、判断に苦しむものの、遺構とするのが自然だと思われる。このように、高麗寺山城は山頂に位置していたとするのが妥当である。

登山は15分ほどで、高来神社の社殿脇から登山道が走っている。有名なハイキングコースのようで多くの登山者が見られた。山頂から西に5分ほど下って行くと堀切が現れる。

 

 (【左写真】山頂部分。ここを主郭としたい。【右写真】土塁状の地形は遺構ではない。)

 

 (【左写真】主郭の下には腰郭と思われる平場もある。【右写真】周辺には武者走り状の登山道が走る。)

 

  (【左写真】大堀切。一応、遺構として問題なさそうだ。【右写真】大堀切を上から見る。)

 

  (【左写真】大堀切には郭が付属している。【右写真】小堀切。こちらは自然地形かも知れない。)

 (国道1号花水橋からの遠望。手前の山頂に城址)

 

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