長浜城

 標高30メートルほどの小規模な城だが北条氏の室町から戦国までの水軍基地として重視された海賊城。

後北条氏が里見氏と激しく対立すると水軍の重要性を痛感し、三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織し、江戸湾から里見氏の勢力を駆逐する一方、駿河に侵入してきた甲斐武田氏に対しても、伊豆の水軍を組織しその脅威に備えた。

天正7年(1579)には後北条水軍の事実上の統括者である梶原備前守がここ長浜城におかれ、翌天正8年(1580)、武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦が行われた。その後、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原合戦により、長浜城は再び緊張状態におかれた。しかし、後北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、在地土豪大川兵庫を中心とする地元住民が守ったが、一戦も交えずに開城したという。そのまま廃城に帰したようである。

城址には以前は三井家の別荘が建っていたが、昭和40年代に取り壊された。昭和60年には市教委による詳細分布調査が実施され、4つの曲輪と15の腰曲輪の他、曲輪上の土塁跡や6基の掘切等が確認されている。曲輪の一つ一つは小規模であるが、城郭形式は直線の連郭式で、後北条氏の城郭形式の典型を見ることができる。また城の南側、陰野川沿いに田久留輪と呼ばれる地域があり、水軍武将の居館のあった曲輪跡であると推定されている。

城址は駿河湾の最内部である内浦湾の三津浜海水浴場の一角にある。こんもりした小山の麓に赤い鳥居が登山道の入口。

 

  (【左写真】二の郭。そこそこに広い。 【右写真】そこにある石積み。遺構かは不明。)

 

  (【左写真】本郭虎口。一帯が石積みで守られている。 【右写真】本郭で頂上部。)

 

  (【左写真】本郭から海へ続く帯郭が多数確認できる。 【右写真】帯郭にある石積みだが遺構かは不明。)

 

  (【左写真】【右写真】ともに船着場。4箇所以上は残っているようだがすべて遺構かは不明。)

 

  (【左写真】二の郭虎口で大手口。石積みは後世のものか。 【右写真】三の郭と南郭を隔てる堀切。これは遺構だろう。)

 

  (【左写真】城址遠望 【右写真】本郭から湾を望む)

 

(以上の様に石積みが多様されているが遺構かは判別が困難。

かつてあったという別荘建築時の改変かもしれないが、もし遺構なら一流の史蹟である。

ただ国の史跡に指定されるくらいなので縄張りの保存度はいいのだろう。)

 

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