平瀬城

武田信玄の信濃侵攻に最後まで抵抗した城で、落城後は武田軍の猛将である原虎胤が城主に入ったといわれる。

もともとの城主である平瀬氏は古くからこの地を治め、信濃守護小笠原氏の信任厚く南北争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を共にしてくる。平瀬地域は小笠原氏にとって、その後も最も重要な拠点の一つであったことが知れる。おそらく平瀬城は南方の犬甘城と共に林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられ、北の本城、南の支城から構成されている。

天文二十年十月二四日武田晴信の侵攻にあい落城、その際平瀬方武将204人が命を落としたとされている。武田方により同城は同年十月二八日に城割、そして鍬立がなされた。

城址への案内板はあるが、ほどなく登山道が消滅し、主郭まで辿り着くことができなかた・・・。

 

 (【左写真】山麓の説明看板。ここまではいいが途中で登山道がなくなる 【右写真】郭はいくつかあり)

 

 (【左写真】堀のようなものもあるが明確ではない)

(【右写真】城址遠望。中央の山が本城。手前の山に支城があるという。支城は山麓から既に登山道はないらしく、本城の方も夏場の登山は困難。冬場でも道なき道をよじ登るかたちになるのでは・・・。)

 

 

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