光城

仁場城とも。標高933、比高360m。

豊科町内では規模の大きな山城で、光城は鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族・光氏によって戦国時代に築かれたという。海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎・幸元と名乗ったともいわれている。

海野氏の一族は、そのころ会田刈谷原田沢(上の山)塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、城内の最も高い所でノロシ台のあたりに火の守り神とされる古峯神社が祭られてきた。

犀川右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本平進攻に対しても兵を配して籠城したといわれる。しかし天文二二年(1553)刈谷原城攻めに際し戦わずして落城した。その後天正十年(1582)に松本城主となった小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。

山頂に南北15メートル東西50メートルの楕円形の本城を築き、背後に高さ2メートルの土塁、三つの帯郭と四本の横堀(内二本先は縦堀となる)、南方の小城への尾根に三つの掘割を施し西方前面の南北27メートル東西55メートル(上の平東西42メートル南北18メートル)の楕円形の平との間に二つの掘割を施し、さらに西北方の尾根に二つの掘割を施している。

国道19号沿いには見付けやすい案内板があるがそれに従って行くと城山の南側の登山道へ着く。徒歩なら1時間を下らないだろう。また、県道57号を刈谷原方向に進むと別の城址への案内看板がある。こちらは山頂まで車で行ける。

(現地縄張図)

 

(本郭からさらに奥に登った小城には井戸址と思われる遺構が見られる。右写真は本郭址。)

 

(本郭下の堀切とそこの郭。右手の土塁を登れば本郭と古峯神社がある。)

 

 (いくつか見られる堀と全景。この山も相当に高く、険峻である。)

(この山の頂上)

 

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