青柳城

標高905m、比高315m。坂北村全部と本城村の大部分を本領にしていた青柳氏の城。

小笠原氏滅亡後、天文二二年(1553)武田信玄が刈谷原城虚空蔵山城を落とすと、川中島へ侵出すべく武田信繁を主将に北信地方に侵入し、降伏した青柳城の青柳頼長を従えて服部清延を追い払い、武田信玄は川中島への拠点として改修しここに10日間泊まっている。しかし川中島で上杉謙信の攻勢が強まると青柳城は焼かれて、武田軍は深志まで撤退した。

武田氏滅亡後、徳川氏の小笠原貞慶と上杉景勝の争奪の的となる。天正十一年(1583)四月から翌年までの1年間ここと麻績城の取り合いが4回繰り返された。青柳頼長が小笠原貞慶に深志城まで呼び出されて暗殺され青柳氏が滅亡すると、小笠原氏の家臣の松林氏が在番している(『信州の城と古戦場』)。

山城には武田・小笠原の改修により、各時代の特色が残っている。中世青柳氏累代居城の跡。居館跡とともに長野県の史跡。通称「城山」(標高905メートル)と呼ばれる山頂に築かれ、難攻不落の要害であった。大小8つの郭跡と東に7条の空掘がある。当時の山城としては大規模なもので、その支城として竹場城址(鍋山城址)と仁熊城址(隠城)があったという。

坂北村の麓から徒歩で登山もできるようだが、山頂の城址公園付近まで車で行ける。

 

(主郭址。一番の高みにある。それをめぐる石積み。小笠原貞慶時代のものという。)

 

(三の郭より主郭を見る。右写真は堀切より撮った土橋の図。)

 

(幾重もの深い堀で囲まれている。左写真は二重の堀切で、その底から見上げたのが右写真。相当に堅固な作り。)

 

(井戸址と思われる遺構。分かりづらいが石が円状に置かれている。右写真はさらに二重堀切を撮ったもの。)

 

 (掘切を横から見る。全景写真は坂北駅付近より撮影。この山頂が城址で、なるほど難攻不落である。)

 

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