麻績城

標高940m、比高280m。

麻績氏の本拠。麻績氏の娘は諏訪頼重のもとに嫁いで女の子を産み、その子はのちに信玄の側室となって武田勝頼を産んだという。

戦国時代麻績の地を支配したのは服部氏で古屋敷に居館を構えた。1553年武田信玄が刈谷原城虚空蔵山城を落とすと、川中島へ侵出すべく武田信繁を主将に北信地方に侵入し、降伏した青柳城の青柳頼長を従えて服部清延を追い払い、麻績城には青柳氏が移った。しかし川中島で上杉謙信の攻勢が強まると麻績城は焼かれて武田軍は深志まで撤退した。

武田氏が滅亡した天正十二年(1582)以後、徳川氏の小笠原貞慶と上杉景勝の争奪の的となり、最終的には小笠原氏が支配したものの、新たに入る者もなく廃城となって歴史の舞台から姿を消した。

麻績村の中心地に城址案内があるので迷わない。麓からは60分程度かかるというので山腹まで車で行ける搦手口を目指す。城山を巻くように山道を行くと見付けやすい案内棒があって、車を2台ほど停められるスペースもある。15分ほど登ると尾根に出るので、そこを右に険しい崖を登ると城址。

  

(本郭址。面積はそこそこある。本郭の堀切が右。)

 

(二の郭址とそこから三の郭を見上げる。急坂の上が削平されていて三の郭がある。この辺りはかなり堅固である。)

 

(三の郭が最も高地にあるようだが、かなり狭い。そこにある石は人工的に削られた址があり、礎石に使用したものか。右写真は三の郭の全景。)

 (城址全景。相当に険しく高い山の頂上にある。今回は最も登山時間の短い搦手から登った。それでも30分くらいはかかったと思う。しかも結構キツい傾斜。だがしかし城址は想像以上に小さくて遺構もあまりない。かなり残念であった。青柳城が良かっただけに期待しすぎたのであろうか。)

 

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