土屋昌次屋敷

1573年に武田信玄が死去すると、その遺言を守って武田勝頼は遺骸を密かに隠して3年後に荼毘に附した。その場所が土屋昌次邸宅であったという。それから200年後の1779年に甲府代官の中井清太夫がここを発掘し、信玄の石棺を発見し、幕府に届け、信玄の墓所に定められたという。

信玄の菩提寺である恵林寺の住職であった名僧・紹川国師はその日記で上記の内容を著しているので、信頼に足ると思える。ただ信玄の遺骸がどうなったのかは諸説紛々であって明確には分かっていない。

土屋昌次は武田24将のひとりに数えられ、幼名を平八郎、右衛門尉昌次を名乗り、22歳にして50騎を預けられ侍大将に昇進した勇将。第四次川中島の合戦の時には、初陣でかつ17歳ながら信玄の側近として常に信玄の側にいて上杉謙信の一騎討ちに立ち会ったとされる。信玄の病歿に際して殉死しようとしたが、高坂昌信に説得されて思い止まったという。こんないろいろな巷説のある武士であるが、長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川軍が武田軍の突撃を防ぐために築いた木柵にしがみ付き、それを引き倒そうとしたが鉄砲の集中砲火を浴びて戦死したといわれている。

 

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