世田谷城

応永年間(1394〜1428)の築城とされる。世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居住したのに始まると伝える。烏山川を天然の水掘にし、豪徳寺を含む大規模な城であったという。

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。

世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされたという説がある。また当時の石垣は江戸城改修に転用されたといわれる。現在は世田谷城址公園となって整備されている。公園内には土塁や堀と思われる地形がみられるものの、どれが遺構なのかの峻別は困難である。隣、豪徳寺が城の主要部であったらしく、そちらにも遺構が確認できる。

 

 (【左写真】公園入口。城址の説明板があるが公園自体の規模はさほど大きくない。

【右写真】土塁と思われる藪。地形的に最も高度で、出郭があったのかも知れない。)

 

(【左写真】空堀と云われる場所。石垣は当然近年のものだが、ここが堀の遺構なのかは即断は躊躇。

【右写真】土塁上で櫓台址とも見える小平地が奥にある。しかしいずれも明確な遺構でない。)

 

(遺構はハッキリしないが、都心にこれだけ城の雰囲気を保っている場所も珍しい。)

 

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