海野城

海野氏は滋野氏の分流と云われる小県地方の名族であったが、天文十年(1541)五月二十五日、武田信虎、村上義清、諏訪頼重らに攻略され(『神使御頭之日記』)、海野氏二十八代目海野棟綱(真田幸隆の実父)は上野国の上杉氏を頼って逃げ、弟・幸義は負死した。その後、海野城は武田氏、村上氏、諏訪氏がそれぞれ謀略を尽くして支配しようと試みたが、結局、武田氏の手中に納まった。永禄四年(1561)武田信玄が海野城を治めるとその次男・竜宝を城主とし、海野二郎信親と名乗らせたという。なお、竜宝は盲目であったため、家督は諏訪勝頼に継承された

海野氏が本拠を構えていた場所は、現在のJR信越本線の「大屋駅」と「田中駅」の中間地点付近(白鳥台とも)で、寛永二年(1625)からは宿場として発展し、城址は跡形も無く消滅した。

城域がどこであったのかも明確にできないが、海野宿の古い趣の建築物が多数保存されており、江戸時代のよすがを残している。海野宿からやや山沿いに登った興善寺が海野氏の菩提寺である。

(海野宿)

 

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