木曽福島城

天文年間、木曽氏18代の領主義康によって福島城(上の段城)の詰城として築かれたものといわれ、本丸、二の丸、三の丸が空掘により区画された、戦国時代末期の典型的な山城形式で、向城(向い側の城)と呼ばれていたことが現在の地名によってうかがわれる。木曽福島町の城山に位置する福島城は比高250mの高所に本丸、二の丸かなり広い三の丸を残し、興善寺山との間を空堀で断ち切った面影が見られる。水の手側は攻められる心配がなかったようで、山麓の大通寺が居館の建っていた場所とされる。

弘治元年(1555)に塩尻峠から木曽方面に侵攻した武田軍は贄川城(登山に4時間かかるという日本屈指の山城)の千村俊政を降した。木曽義康は鳥居峠へ陣を構えていたが一戦を交えることもなく退却、籠城する。上杉謙信が川中島に侵攻してきたという情報を受け、武田軍の主力は木曽から引いたが、4ヶ月後に木曽地域の本格攻撃を再開し、日義村付近で敗れて降伏する。

武田氏が衰退の道に傾くと、天正8年(1580)の夏頃、織田信長の離反工作に応じて織田氏に内通、激怒した武田勝頼は木曽に攻め込むが、義昌は織田家と連携して、武田軍を木曽谷に迎撃し、これを防いでいる。武田氏滅亡後、木曽義昌は織田信長に従う。本能寺の変で混乱を来たすと義昌は深志城に布陣した。しかし上杉景勝に攻撃され、福島城へ退却し、天正12年(1584)には小笠原貞慶によって戦火にさらされ、天正18年(1590)木曽氏が小田原合戦に参陣しなかったかどによって豊臣家に没収されている。

  

(【左写真】城山遠望 【右写真】空堀址)

 

(【左写真】三の丸址 【右写真】二の丸址)

 

(【左写真】本丸址 【右写真】城址登山道より木曽の町を望む)

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