高月城

高槻城とも。『日本城郭大系』の一説では、もともと長禄年間(1457〜1560)に築かれた大石信濃守顕重の居館があった場所で、それが城郭に発展した可能性が一応有力だとする。標高152m、比高40mで、秋川の断崖に建ち、東は多摩川よって守られている。

『新編武蔵国風土記稿』には、古来より景勝の地で、本丸外曲輪や堀址の遺構などがあったとする。ちなみに『新編武蔵国風土記稿』という史料は、大学頭林衡を総裁とした昌平坂学問所に設立された地誌調査所で、文化7年(1810)から文政11年(1828)に至る19年間にわたって地理局の史官41名が編纂した江戸幕府の官撰地誌。

高月城の歴史はよく分かっていないが、大石氏が廃城とした後も利用が続いたという説が有力。その立地条件から後北条氏の滝山城の支城にされていたとみるのが自然で、甲斐武田氏に対する防御として秋川のコースを重視した北条氏照が最終的な改修を施したものであろう。

城址へは東秋川橋と円通寺の中間付近、「高月城」というホテルを細道に進んだホテル向かいの小道を登っていく。

 

 (【左写真】本丸。かなり広いが耕作地になっており旧状は留めていないだろう 【右写真】本丸虎口)

 

  (【左写真】本丸下の二の丸とも思える削平地 【右写真】下ったところには堀切らしき地形もあるが、遺構かは不明。)

(城址遠望。手前は秋川と東秋川橋。

 

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