掻揚城

保福寺城、見当城、掛ヶ上城とも。標高904m、比高125m。

現在の四賀村地方、会田・刈谷原は善光寺街道の宿場として、保福寺は江戸街道の宿場として栄えていた。保福寺峠を越えれば上田・小県地方に出られることから、戦国時代にも重要な街道として使用されていたようである。その峠の入口にあるのが掻場城で、文亀2年小笠原長棟の築城。刈谷原城の出城であったが、天文二二年(1553)に武田信玄が攻略した。

小さな削平地はいくつか見られるが、単郭の城といってよいであろう。搦め手の尾根上は堀切で守り、本郭は土塁と石積みが囲んでいる。大手と思われる街道側の斜面には多くの帯郭が配されているが、城郭全体の規模は大きくはない。

城址へは保福寺口バス停の金山町側から突き出た尾根の先端にある。登山道は全くなく、よじ登るしかないようだ。

 

 

(【左写真】本郭と城址碑。さほど広くはない。 【右写真】本郭の土塁。往時は石積みで覆われていただろう。)

 

(【左写真】本郭すぐ裏手の堀切 【右写真】本郭を全周する石積み。非常に原始的な形状。)

 

(【左写真】保福寺より城址を望む。この尾根の先端に城址。 【右写真】自作縄張り図)

(登山経路図・国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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