秋吉城

標高970m、比高330m。谷をひとつ挟んでの尾根上に位置する中ノ陣城とともに鎌倉時代、会田海野氏による築城だろう。

会田氏は、天文二十二年(1553)四月、武田勢の火攻めにより、降伏して武田氏の家臣となった。天正十年 (1582)、小笠原勢の攻撃を受けてこの城が落城し、最後は矢久の覆盆子城(いちご)に逃れ、敗れたといわれる。

現存する遺構は、小笠原系の城主により会田氏滅亡後、天正十年から十八年頃に再構築されたものと推察され、松本の林大城山家城などと共通性がある。中ノ陣城側への大手口には現在も多くの石積みに囲まれた郭があって、大規模な根小屋があったものと思われる。

城址の主郭は非常に分かりにくい場所にある。林道虚空蔵線にある中ノ陣城登山道から少し登ると比較的広い削平地(根小屋部分)に出るが、ここを右手の尾根を登っていく(道なし)としばらくして小規模な郭が現れ、城址碑が建っている。そこからさらに険しい斜面を登って行くといくつかの郭と石積みが確認できる。

  

(【左写真】城址碑 【右写真】本郭だが、細長く、削平も埋もれている。)

 

(【左写真】本郭から相当に登った郭にある石積み。すべての郭はこのような石積みで囲まれていた可能性が強い。

 【右写真】本郭下の竪堀)

(自作縄張り図。左側に根小屋と登山道。右下の主郭から山頂に向って小郭が連続するが、ほとんど埋もれている。)

(国土地理院発行の2万5千分1地形図

 

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