村井城

小屋城とも。

村井氏によって築城された。村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。勢力の拡大と共に牧場地帯から松本平南部の平坦地、村井に居館を建て村井氏と称した。埴原城を要害城として築いた最初の豪族という。村井氏はこの館を中心に現在の松本市中山、内田、寿、芳川、塩尻市広丘、片丘にわたる一帯に勢力を張っていたといわれる。

天文十七年(1548)に武田信玄が筑摩郡に侵攻を始め、小笠原氏の配下であった村井氏は、小笠原長時が塩尻峠の合戦で信玄に敗れて逃亡すると、没落した。

信玄はただちにここを府中攻略の前進拠点として改築した。信玄は村井城に到着すると、北熊井城を攻め落とし、さらにイヌイの城(埴原城とも)を陥落させたが、小笠原氏の本城である林城深志城などは自ら落ちてしまった。信玄は村井城から深志城に移って深志の改築に取りかかり、侵攻拠点をそちらへ移した。村井城は拠点としての役目を終え、安曇侵攻の中継基地となったという。

 塩尻北IC近くに村井という地区があって今の泉龍寺付近が城址。

 

 (泉龍寺の近くにある説明文。)

 

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