大倉城

大倉城(★★★長野県長野市豊野町大倉、標高460m、比高140m。)

鎌倉時代の寛元年間(123446)に小笠原信濃守長清が築城、九男与市長澄が大倉氏を名乗って住居したと伝えられるが、文献資料によると戦国時代の永正十年(1513)頃には築城していたと考えられる。

川中島合戦の頃には上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰めの城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。

戦後は廃城となったが天正十年(1582)に武田氏を滅ぼして川中島四郡を支配した織田信長の家臣・森長可に対して、上杉景勝と手を結んだ芋川館の芋川親正を大将とする8,000の一揆が蜂起し、大倉古城を修築して立て籠もった。『信長公記』によると、47日、激戦の末1,250余人が城外で討ち取られ、城内に残っていた女性や子供1,000余人が切り捨てられたという悲劇の舞台となった(『現地説明板』)。

遺構の保存状況は大変よく、郭、堀切、竪堀、井戸、石積などが確認できる。規模も大きく籠城も可能である。

国道18号「大倉」交差点を東に曲がり、すぐ左手に案内板が設置されている。そこから登山は15分程度。

『信長公記』 天正十年(1582)四月

信州川中島表、森勝蔵働きの事

四月五日、森勝蔵、川中島海津に在城致し、稲葉彦六、飯山に張陣侯処、一揆蜂起せしめ、飯山を取巻くの由注進侯。則ち稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、是等を御加勢として飯山へ指し遣はされ、三位中将信忠卿より、団平八、是又差し越さる。然るに、御敵山中へ引籠り、大蔵の古城拵へ、いも川と云ふ者一揆致し、大将楯籠る。四月七日、御敵、長沼ロヘ八千ばかりにて相働き侯。則ち、森勝蔵懸け付け、見合せ、焜と切り懸かり、七、八里の間、追討に千弐百余討お捕り、大蔵の古城にて女童千余切り捨つる。

以上、頸数弐千四百五十余あり。此の式に侯間、飯山取り詰め侯人数、勿論、引き払ひ、飯山請け取り、森勝蔵、人数入れおき、稲葉彦六、御本陣諏訪へ帰陣。

稲葉勘右衛門、稲葉刑部、稲葉彦一、国枝、江州安土へ帰陣仕り、右の趣、言上なり。森勝蔵山中へ日々相働き、所々の人質取り固め、百姓ども還住申し付けられ、粉骨、是非なき様躰なり。

 

  (現地縄張図。赤線が登山道。)

 

  (【左写真】主郭で広い 【右写真】城址主要部には石積み跡も残る)

 

  (【左写真】二の郭から堀切越しに主郭を見上げる 【右写真】主郭奥、搦め手の大堀切)

 

  (【左写真】主郭の東には井戸郭がある 【右写真】城域の虎口部には堀切と切岸がある)

 

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