芋川氏館

芋川氏の起源はよく分からないが、応永十一年(1404)に高梨氏が幕府に叛いた際に、細川兵庫助が討伐に向かい、高梨氏に従属していた芋川氏の若宮城は落ち、当主・長知は自害、一時芋川氏は断絶したという(『芋川氏累世譜録』『市河文書』)。

その後の経過は不明であるが、永禄十二年(1569)に武田信玄は芋川右衛門尉に「雪消えなば、越府に至り行に及ぶべく候。なおその堺無事に候や承はりたく候。」との文書を送っており、武田氏の傘下にあって、重用されていたことが分かる。武田氏滅亡後は上杉景勝に従属し、天正十年(1582)には信濃に侵攻した織田信長に対して、芋川親正を大将とし大倉城で一揆を蜂起したが敗れている(『信長公記』)。その後、上杉氏に従って大阪の陣に参戦し、大森城(福島市大森)の城主に収まったと云う。

芋川氏居館は歴史に従って移動したようだが、天文十年(1582)頃は芋川集落、妙福寺付近であったとされる。県道60号、「田中」バス停の近くに土塁が保存されており、説明板も設置されている。民家の一角になっているので訪問には配慮が必要。

 

  (【左写真】土塁跡 【右写真】史跡碑と説明板が設置されている)

 

 

 戻る

 

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu