松山城

標高57m、比高40m。松山城は、市野川が形成した広大な低湿地帯にかこまれている丘陵の先端に築かれた、北武蔵地方屈指の山城である。

応永年間(1394年〜1428年)と推定される築城以来その名を中世史に登場させている。天文六年(1537)の攻防戦では河越城を落として威勢を張る北条氏綱が攻めている(この時、松山城風流歌合戦があったという伝説がある)。

永禄四年(1561)には上杉謙信が9万の兵で攻め落として越後に引き揚げると、謙信は猛将・太田資正を城主に据えた。資正は犬50匹を城内で飼育していたという(『甲陽軍艦』)。その後、北条氏康が一族・氏政、氏照、綱成ら率いる3万の兵で囲んだが、資正は犬5匹を岩槻城に走らせて岩槻城の援軍を受けて北条方を退却させている。さらに北条氏康は、武田信玄と同盟して5万6千の大軍で攻め寄せ、2ヶ月以上に亘る激しい攻防の末に和睦という形で結局落城を為すことができなかった要害である。

しかし豊臣秀吉の小田原城攻めでは前田利家、上杉景勝らの猛攻を受けて落城している。徳川家康の関東入国以降は、一時、松平家広が城主となるが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され廃城となった。

現存する城跡の規模は、東西約250メートル、南北300メートルほどである。雑木林に覆われているが、本丸・二の丸・三の丸・物見櫓・食料庫跡や、深い空掘、虎口などが残っており、典型的な山城としての構えを今に伝えている。また、丘陵頂上の櫓台跡に、城跡碑がたてられている。

  

(【左写真】本丸址 【右写真】二の丸址)

 

(周囲は非常に大規模で複雑な空堀が巡っている)

 

 (【左写真】春日丸址 【右写真】兵糧倉址付近から中央の本丸を見る)

 

(遠望。山麓から徒歩5分ほどで城内に行け、整備状況も良好。間違いなく全国でも一級の遺構。)

 

 

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