青鳥城

石橋城とも。750m×600mの大規模な平城で、水掘を備えた本格的直線連郭式の城郭であったという。『鎌倉大草子』『公方九代記』『九代後記』などの史料には永享12年(1441)の結城合戦の際、将軍方の上杉憲実がこの地区である「唐子・野本に逗留」と記していることから、すでに城郭が存在し、さらに大軍の駐屯用に外堀などが整備されたといわれる(『日本城郭全集』)。

その後、歴史その名を示さないが、『小田原衆所領役帳』に「狩野介四十貫比企郡青鳥居」とあり、戦国期は小田原城北条氏の支配下にあって、松山城の支城であったとされる。戦国末期には松山城主・上田朝直の家臣・腰越城城主の山田伊賀守直安が城主に置かれたと伝わる。

本郭は比高8mの台地縁辺部にあり、長さ100mの規模で周囲を土塁と堀で囲まれた本郭を中心とし、北に2の郭、3の郭と広がると推定されるものの、現在では3の郭は確認できない。大手口は二の郭西南端にあったと考えられ、その湿地に「大手前」という地名が残っている。

城址は関越自動車道の東松山ICからすぐ近く、国道254号の「きじやま交差点」を昭和シェル側に入って、左手に古びた神社の参道があるので、そこが本丸の土塁上。

 

(【左写真】本丸址 【右写真】本丸を囲む空堀址。藪化がひどいが7m程度の深さ。)

(本丸を囲む土塁。3mほどで虎口以外の三方向にこの字で作られている。)

 

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